昨日はサウナ疲れでばたんきゅうのため休ませていただきました。
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島原より戻りました松平信綱、将軍のもとからさがりまして、井上新左エ門に向かって言うには、
「島原では諸大名の与力の兵数きわめて大であったので、総攻撃の際には我が陣中の鐘を撞き、これを合図に仕掛けることにした上で、もろもろの詮議に日を過ごしておった。
ところがある晩、わしは横になった後で、ふと、
今夜にても賊方の者か又は馬鹿者ありて、忍び入りて鐘を撞き、我が衆を誤まることもあらん。
―――今晩にも、敵の忍びなりこちらのおかしくなったやつなりが、そっと入り込んで鐘をついて、ためにわが軍が大混乱に陥ることがあるかも知れぬ。
と思い至り、急ぎ鐘を撞く撞木(しゅもく)を取り外させてわしの寝所に運ばせた。
「よしよし」
と眠ろうとしたが、目がさえてかなわぬ。またふと、
必ず撞木にも限るべからず、鳥銃様の物にても撞く間敷きものにもあらず。
―――撞木がなければ大丈夫だというわけでもないぞ。火縄銃のような長細いものであれば撞けるではないか。
と思い至り、すぐに人をやって吊り下げてあった鐘を地面に下ろさせた。
その報告を聞いて、今度こそ安心じゃと横になったが、またまたふと、
―――地面に置いてあっても強く叩けばやはり音がするはずで、それを聞けば遠くまで響かなくても近くの陣では大騒ぎすることになろう。
と思い至り、今度は自ら足を運んで、地面に置かれた鐘のところまで行き、
薦(こも)にて巻きて置かせたり。
こも(むしろ)で巻いて、叩けないようにしておかせた。
「これでいよいよ安心なり」
と寝についたわしじゃが、すぐに不寝番の将士に起こされた。
・・・敵方の夜討ちであった。
大規模な夜討ちである。総攻撃と知れた。
わしはよろい・かぶとつけるももどかしく、
「さて、全軍に鐘を撞いて知らせよ」
と下知したが、なかなか鐘の音が鳴らぬ。
「ええい、どうした?」
と訊かせると、薦を解くのに手間どっていたというのだ。
「今はすでに薦を解き終えておりまする」
しばらく待ったがなお鐘の音が鳴らぬ。
「ええい、どうした?」
と訊ねるに、「鐘を吊り上げるのに手間取っていたという。
「今は釣り上げおえました。しかるに・・・」
「しかるに?」
「撞木が見当たりませぬ」
「ええい、もどかしい!」
わしは鐘に駆け寄り、そばにいた兵士の火縄銃を奪い取ると、それで鐘を撞いた。
きいいん、いんいんいんいんいん・・・・・・・
実はその時にはすでに諸大名の兵は動き始めており、賊方の攻勢を跳ね返すや、夜の明けるまで攻めにせめて城壁を奪い取ったのであったが・・・・・・・・
「あのときは、
彼の何つぞや申されし方士蓬莱宮の物語は個様(かよう)のことにこそ、と、其許(そこもと)を思ひ出せし。
あの、いつぞや話していた蓬莱宮を訪ねた道士の話、念に念を入れすぎてはならぬというあれ、はこのようなことを戒めておったのじゃなあ、とおまえさんのことを思い出したものであった。」
そう言うて、にこにことお笑いになったということだ。
普段ならともかく、天草の乱を鎮めて江戸に帰り、まず将軍家に御報告をする、というまさにそのときに衆人の前で自分の過ちを堂々と語り、ひとを褒めそやす。
心公にして、器量の大なるも知られけり。
(信綱さまの)心が公平で、器が大きかったことがわかるであろう。
ちなみに、このとき、あまりに戦果が大きく、賊方の首がいくつあるかわからないほどであった。そこで信綱はまず藁を一束づつ手に握り、これを人に与えて数を数えさせ、しかる後に
頸の口へ一本づつ入れさせて、其の後残りを算させける故、即時に一万八千と算(かぞえ)候て、江戸へ注進申されたり。
とられた首の口に一本づつ入れさせ、最後に残った藁の数を数えさせたので、すぐに総計一万八千という首級の数が知れ、江戸に伝達することができたのである。
ひとびとは、
豆州は人間にてはよもあらじ、孫呉、孔明といふとも及ぶ間敷(まじ)。
伊豆守どのはニンゲンにはござりますまいよ。戦国の名将・孫子や呉起、あるいは三国の諸葛であってもあの方には勝てますまいよ。
とささやきあったということだ。
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岡谷繁実「名将言行録」より。伊豆守さまは島原の乱のほか、慶安事件(由比正雪の変)や明暦大火の処理など、危機管理において特にその能力を発揮した近世初期の大官僚である。
ちなみに、この島原の乱戦の中で宮本武蔵がはじめて「魔界転生」の秘儀を目にし、またよみがえった天草四郎らの天下を覆さんとする企ても、柳生ジュウベエと伊豆守の前にあえなく鎮められたことは、山田風太郎先生の「魔界転生」を御参照あられたい。
さらにちなみに、「名将言行録」は粗笨(そほん)の謗りを免れぬといわれながらも明治〜大正の大ベストセラーであるが、岡谷繁実(おかや・しげざね)翁は館林藩士、維新の際には京都にあって藩のために策謀することひとかたならず、維新後一時官途にあったが、辞して同書の著述に専念した。
翁は、
対ペルリ談判に際し、わが委員の腰の弱いのをまのあたりに見て大いに憤り、その夜より筆をとって十六年にしてその大著を成したのである。(沼波瓊音「しろ椿」)
だそうであり、かなりの人物であられるようで、現実には会いたくないタイプっぽい。