今日はよく降りましたね。
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あるとき、将軍家に対して○○家よりタラ(鱈)が届きましたそうな。
本来、いただきものはもらった本人が確認すべきものですが、将軍家が自らそのようなはしたないことはしない。将軍に代わるしかるべきひとが「見届け」て、将軍に御報告申し上げる。それから料理に回されることになる。
三代将軍の懐刀、「知恵伊豆」と呼ばれました、老中の松平伊豆守信綱さまがこのタラを「見届け」ることとなった。
すると、このタラにゴミがついていた。
信綱さま、
「誰じゃ、このタラを取り次いだ者は。将軍家と○○家の間に障りを造ろうという不埒ものめ」
と怒色あらわであった。
そのとき、井上新左エ門なる者かたわらにありて、
「あいや。御老中さま、いかがなことか。タラには塵があるものとお聞き及ばずや?」
と言うた
信綱がぎろりとにらみすえると新左エ門、素知らぬ顔で
ちりや たらり
と能楽祝言「三番叟」の一節を歌い始めたので、信綱苦笑して機嫌を直した。
そして、笑いながら
兎に角物に念を入れぬ故なり、何事も念を入るゝに如くはなし。
「とにかく何事にも念入りせねばならん。少しでも手を抜くからこんなことになるのじゃ」
と言うと、新左エ門答えて言う、
余り念を入るれば、却って悪しきこともあるものなり。
「いやいや、あんまり念入りにされますと、かえって悪い結果になることもあるのでござる」
「どういうことか。聴こう」
「さんそうらう」(そのことでござる)
と話すには・・・・
むかし、唐の玄宗皇帝、道士に命じて亡くなった楊貴妃の所在を尋ねさせた。
道士、四海のすみずみを訪ね歩き、ついに蓬莱宮に仙女となっておられる楊貴妃を訪ねあて、皇帝のお言葉をお伝え申し上げた。
帰りがけに、本当に貴妃を訪ねた印をいただきたいと申し上げたところ、貴妃は髪に挿した玉の簪を外し、これはさる年の七月七日の夜、長生殿に二人だけであったとき皇帝から賜ったもの、これをわらわに賜ったことは陛下しか知らぬことゆえ、これを証にせよ、といわれる。
おしいただいて帰路につき、長安に戻って皇帝に玉の簪をお見せすると、皇帝、感窮まって嗚咽することしばしであった。
そこで道士、さらに言うに、
「その玉の簪、わたくしめに下されながら貴妃さまがおっしゃりまするには、
―――この玉の簪は、さる年の七月七日の夜、長生殿に二人だけでいた夜半ひと無く声無きときに、陛下より賜りしもの。そのとき、陛下とわらわとは、
天にありては比翼の鳥となり、
地にありては連理の枝とならん。
と誓い合うたのじゃ―――」
と」
そうか。ああ、そうであった。
皇帝はその夜を思い出して、さらにさめざめと涙を流した。そして、道士にたんまりとほうびを約束してさがらせた。
その後で、皇帝はよくよく考え合わせてみた。
・・・あの言葉はあの晩確かに誓いあった言葉であった。そして朕と貴妃だけの二人だけの秘密にした言葉じゃ。それをどうしてあの道士風情に洩らすものであろうか。
そして、ある考えに至ったのである。
・・・すなわち、あの道士は生前から貴妃と通じており、貴妃からわしとの誓いの言葉を聞いておったのだ―――わしは、貴妃とあの道士に騙されていたのだ―――!
玄宗皇帝は次の日、ほうびをとらすと称して道士を呼び寄せると、側近に命じて道士を捕らえさせ、誅殺してしまった。
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「・・・と申しまする」
新左エ門、周囲をぐるりと見回して、
前の玉簪計(ばか)りにて能かりしを、余り念を入れたる故に斯の如し。
「最初の玉の簪だけで十分な証になりましたものを、念を入れて二人だけの密語などばらしてしまったものですから、こんなことになってしまったのでござる」
「なあるほど」「これはしたり」「わはははは」「いひひひひ」
一座興に入りてやみにけり。
一同大笑いしてその場はおさまった。
のでありました。
ところで、その後、天草の大乱が起こり、信綱は幕府側の総指揮官として西行した。
半年後、大勝利を得て帰京した信綱は、旅装も解かずに江戸城に登城する。
城内の留守居の者、みな平伏して信綱を出迎えると、信綱、まっさきに井上新左エ門を見つけ、
「新左エ門、あとで話がある」
と一言ことばをかけて、そのまま将軍に御報告に向かった。
―――やがてお目通りを終えて、信綱は御前を下がってきた・・・。(続く)
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岡谷繁実「名将言行録」巻六十四「松平信綱」条より。ちなみに「比翼の鳥」は胸のところでつながって、二羽で左右の羽を共有する奇形の鳥、「連理の枝」は根は別々だが幹の途中でつながってしまった樹をいい、いずれも男女の良く和合せるに喩える。