初唐の名臣にして能筆家としても名高い褚遂良が同州の判官に赴任しておった永徽二年(651)九月のこと。
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わし(褚遂良)が夜、庁舎の隅で残業していると、頭がくらくらしてきたのであった。そして、
若有若無、猶夢猶醒。
有るがごとく無きがごとく、夢のごとく醒むるがごとし。
現実なのか非現実なのか、夢の中なのか醒めていたのかわからなくなった。
(わしは、どうしたのだ・・・?)
気をしっかり持たねば、と思い定めたとき、ふと、―――
見えました。
見えたのでございますよ。
うひゃひゃ。
巨大な女の顔である。部屋の半ばぐらいもあろうかという巨大な女の顔が空中に浮かんでいたのだ。
その顔は
高髻盛妝。
高き髻(もとどり)して盛妝せり。
頭の上に高くちょんまげを結び、真っ白になるほどに濃い化粧をしていた。
古い化粧法である。眉も落とし、唇まで白粉で隠した真っ白な顔の中に瞳の大きな目が浮かんでいるのであった。
その女は、泣いているようである。
わしは言葉も無くその顔を見上げていたが、やがてその顔の女は、しぼりだすような声で語り始めた。
妾漢太史司馬遷之侍妾也。
妾は、漢の太史・司馬遷の侍妾なり。
わらはは、漢の太史公・司馬遷の侍女でありし。
・・・出身は趙の平原にして、名は随清娯という。
年十七にして中年の司馬遷に仕え、司馬遷が伝説を収集するために諸国をめぐっている間、その傍らにあって寝食のことに従事したが、遷の所用あって都に帰るときにここで待つように命じられ、
後遷故妾亦憂傷。
後、遷の故に妾もまた憂傷せり。
お待ちしてあるうちに、太史公、かの事件を起こしぬ。わらはもまた憂いのために病に臥せり、みまかれり。
「遷の故」とは、司馬遷が李陵の弁護をして帝の怒りに遇い宮刑の屈辱を賜ったことをいう。
さて、随女は死して当時の長楽亭の西に葬られた。漢の長楽亭のあとは今は残らぬが、この地のことであった、ということだ。天帝は随女の若くして純情に死んだのを憐み、この地の土地神に任命したのである。
しかるに、
代異時移、誰為我知血食何所。
代異なり時移り、誰か我がために血食のいずれの所なるかを知らん。
王朝代わり、時世移りぬ。今となりては、わらはがここで祀られて季節ごとのお供えをもらっていたことを、知っているひとはあらざりき。
というのが、随女の言である。
「もしおまへに心があるならば、この地がわらはのつかさどる土地であることを明らかにし、わらはに永遠にお供えのあるようにせよ」
そう言うて、女の顔は掻き消えるように失せた。
その失せるのがあまりに急だったから、わしは「あ」と声をあげた―――
―――目を覚ました。
燭台の油の減り方を見るに、ほんのわずかな間のまぼろしであったようだ。
・・・まぼろしであったかどうか、女の顔かたちはあまりに生々しく、かぼそく怨むがごとき声は、わしの耳から離れなかった。
まったく夢まぼろしと決めつけてしまうこともできず、翌日、わしは庁舎の中で随女を祀ることとし、祭文を書いたのだ。
その銘に曰く、
嗟爾淑女、不世之姿。事彼君子、弗終厥志。百千億年、血食於斯。
嗟(さ)す、なんじ淑女、世の姿ならず。彼の君子に事(つか)え、その志を終えず。百千億年、ここに血食せよ。
ああ! あなたよ。よき女よ。古き時代の姿かたちをして。名高い君子につかえたが、最後まで一緒にはおられなんだとおっしゃる。百も千も億も年の過ぎるまで、この地にてお供えを享けられよ。
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褚遂良「鬼塚志」より。八百年もむかしの精霊でさえ、なおその地に祀られることを求めるのである。いわんやその地に暮らす者に、科学的数値も責任の所在も告げずに「危険になったから出ていけ」というて出ていくものであろうか。