今日は趣向を変えました。
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そのころ(十一世紀前半)、儀同三司・藤原伊周さまの御許に
宗平(むねひら)
とて、希代の相撲(すまふ)ありけり。
―――ある日、伊周さまの御弟ぎみ、剛直を以て鳴りわたった隆家さまの館に、備前の国より
時弘(ときひろ)
と名乗る大力の者が来たって、ぜひとも召抱えられたいと懇願した。
もとより隆家さま、藤原北家のばりばりの貴族ながら、強弓を引くをこととした豪の者、時弘の大力のことを聞き知って、いたく興を引かれたが、
「なむぢは、何ゆえわしに召抱えられたいのじゃ?」
と問うに、
「帥(そち)の殿(←隆家さまが太宰権帥であったので、隆家さまをこう称ぶのである)におかれましては、兄君の儀同三司さまとはお仲もよろしきことと存じ上げております。されば、儀同三司さまとは四方山のお語らいをなさるはず。そんなときに、相撲のご見物などを持ちかけられることもあれかしと思い、帥の殿にお仕えいたしたいと願うのでございます。身どもは、儀同三司さまの御許にある高名の相撲・宗平と、一手を合わせたい―――ただそれだけの思いで備前より上京してまいったのでございまする」
「ほほう」
「この時弘、もし宗平と勝負して、
若し負くるものならば、時弘が首を切られん。宗平負けば、又、宗平が首をきらん。
もし負けましたならば、時弘の首を切ってくだされ。宗平が負けたならば、今度は宗平の首を切りたいものでござる」
「ほうほう、ほほう」
隆家さま、その言を壮とされ、時弘を連れて兄の伊周さまの館に向かった。
伊周さまは優しきお方なれば、弟君のお申し出にひとたびはかぶりを振ったものの、これを階下で聞いていた宗平、
あながちに固辞せず。
強くは辞退しなかった。
ので、隆家さま、
「宗平がよければよろしかろう」
と合図すると、これも階下に控えておった大男、
「身どもが備前の住人・時弘にござりさぶらう」
ともろ肌脱いで立ち上がると、その背中、すでに桜色に紅潮して、侍女たちも
「あやな。うるわし・・・」
とため息つく凛々しさじゃ。
と、宗平は顔色も変えず、
即(すなは)ち立つまヽに、時弘をかきだきて、地に投げふせたり。
すす、と立ち上がり、そのまま近づくと、時弘を抱きかかえ、「あ」という間も無く地に投げつけた。
あまりに強く投げつけられたゆえ、時弘、仰向けに地面に叩きつけられて
しばしは動かざりけり。
しばらくの間、動くこともできなかった。
宗平は衣服の乱れも無く、立ち上がったときと同様に、すす、と階下に戻って両膝ついた。
「みごと」
儀同三司・伊周、宗平の振る舞いに大いに感じ入り、ただちに著したる直衣を脱いで、宗平に給はせける。侍女たちは今度は宗平を指して、
「つやめきてあり。ああ・・・」
とあこがれの目で見つめたのであった。
一方、帥の君・隆家は、
安からずやおぼしけん、涕泣したまひけるとぞ。
悔しかったのでございましょう、涙を流して泣いておられたのだという。
この間に、時弘何とか立ち上がり、衣を直すとそそくさと館から出て行ったが、
時弘いづとて、いかりて門の関(くわん)の木を折りてけり。
時弘が門から出ようとするとき、門番の老人をにらみつけると、
「くそ!」
と怒りにまかせて、門のカンヌキにする横木を手にして、真っ二つに折ってから出て行ったというのだ。
その強力、彼も人並みでなかったことかくの如し。
・・・・さて、帥の殿、この勝負の場から逐電してしまった時弘が、絶望しておかしなことを仕出かさぬよう心配になって、知合いの備前守・源頼光朝臣にそのことを告げた。
頼光朝臣もとより武勇のものなれば、時弘にいたく興味を持ち、即座に時弘の家を訪ぬるに、もう暮れ方というに、その家の田畑で
自ら利牛を引くものありけり。
ウシに引かせる大きな犂(スキ)を、自分で引いている大柄な男があった。
「なんぞ、あの男は」
と問うに、
時弘にてぞありける。
それがなんと時弘であったのだ。
都から帰ってから、片時も休まず己れの体を鍛え続けているのだという。
「身どもは己れを磨いて、宗平どのに今一度いどみたくさぶらう」
と、時弘はすごい眼で都の方を見ながら、言うた。その眼光、炯炯として今しも南の空に輝きはじめた天狼星(シリウス)を凌ぐかと思われた―――と、頼光朝臣は隆家さまに伝えている。
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て、「古今著聞集」巻十・相撲強力第十五に書いてあったよ。
昨日から今日―――