おのれのオロカなるを棚に上げて、ひとのオロカなるを嗤う。なんと情けないことであります。しかしそれでもオロカなるひとの言行はオモシロい。
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五代・前蜀の時代のことでございます。
前蜀の先主・王建(907〜918)は片腕と頼んだ大尉・韋昭度の死後、その忘れ形見の息子・韋巽を何とか引き立ててやりたいと考え、殿中に勤務させた。ところがこの韋巽は「蒙鈍」(蒙昧にして鈍才)で、やることなすこと的外れであったので、同僚たちがこれを揶揄し、彼の役所の席上に
三公門前出死狗。
三公門前に死狗を出だす。
大尉さまの家の門から死んだイヌ(のような韋巽)が出てきおった。
と落書したのである。
「大尉」は「司空」「司徒」とともに「三公」と呼ばれる最高位の官職であるから、「三公」で「大尉」を現わしたのである。
その落書を見た韋巽はしばらく首をひねっていたが、やがて
「どう考えても父上の方が先だぞ」
と言うて、
死狗門前出三公。
死狗門、前に三公を出だせり。
死んだイヌ(のようなわし)の家の門から、以前は大尉さまが出ていたのだ。
と書き直したという。
世人、
能酬酢也。
よく酬酢(しゅうそ)せり。
なかなかうまく受け答えしたものだ。
と称賛したそうである。
ちなみに、主人が客人に酒を勧めるのが「酬」、客人が返杯するのが「酢」である。転じて「応答する」意に用うるのである。
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前蜀で宰相を務めた周庠の子に周仁矩という者があり、公主さまの婿にと目されていた男であったが、彼は
有才藻而庸劣。
才藻あるも庸劣なり。
きらびやかな才能はあるが、その性質は凡庸にして劣っている。
と評価されていた。
やがて国が滅びる(925年)と、彼は成都の町に無為徒食し、ついに
与貧丐者為伍、俾一人先道爵里於市肆酒坊之間。
貧丐者と伍を為し、一人をしてまず爵里を市肆(しし)・酒坊の間に道(い)わしむ。
貧しい乞食たちの仲間に入った。彼は市場の店先や酒場の道端に土下座し、そばに別の乞食が立って彼の元の爵位・出身を呼ばわるのが常であった。
それに哀れを覚えたひとからお恵みをいただき、時には日に二百銭・三百銭を得ることがあったが、その金で
与其徒飲噉而已。
その徒と飲み噉(くら)うのみ。
乞食仲間と安酒を飲み不味い飯を喰らって終わるのであった。
成都人皆嗟歎之。
成都のひと、みなこれを嗟歎す。
成都のひとびとはみな、彼の落ちぶれ、立ち直る気も無いのを歎いたものだ。
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わはははー、いやあ可笑しいなあ。孫光憲「北夢瑣言」巻二十より。
今日は職場の新年会でした。アルコールで気が大きくなっているようだ。