平成22年12月20日(月) 目次へ 前回に戻る
「肝冷斎くんならやれる」「期待している」
今日は体調その他最低。もはや燃え尽き症候群か。
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とりあえず聞いてくだされ。
ある人が、マムシを見かけて、これを打ち殺そうとしたんじゃそうな。ところが打つための杖が近くにない。そこで、このひと、
真(まこと)か、この虫は鉄(くろがね)を置けば、去ることが無いといふものを。
「本当かどうか、この生物は、鉄で製されたものを好むゆえ、それを置いておくとそこから離れようとはしないということじゃが・・・」
と言いまして、腰の小刀を引き抜いてマムシの傍に置き、杖を探しに行ったのであった。
その間にマムシめは小刀に飛びかかり、
ひた食ひに食らうた。
一途に食らいついたのじゃ。
すると、小刀が言うには、
汝、我をば誰と思ふぞ? 千年万年食らふといふとも、汝が歯は皆減つて、身はつゆほども傷(いた)むまいぞ。
「おまえさん、わしを誰だと思うておられるんじゃ? (わしは鉄の刀である。)千年万年かけてわしを食い続けても、おまえさんの歯は磨り減ってしまおうが、わしの方は少しも傷つくことはないのだぞ」
以上。
「何だ?」「何が言いたいのだ?」
と理解できないひとが多かったみたいで、このお話には「下心」(ほんとうに言いたいこと)という解説がついています。すなわちこのお話は「寓言」(たとえばなし)なのです。
では、「下心」を読んでみますと、
下心 いかに腹が立てばとて、力に叶(かな)はぬ相手に対(むか)うて仇を為さうと企(くわだ)つることは、土仏(つちぼとけ)の水嬲(なぶ)りぢや。
意味:どんなに腹が立っていても、力の及ばぬ相手に対して戦いを挑むのは、泥でできた仏さまが水を使うのと同じことじゃ。自分が壊れていくばかり。
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「マムシが鉄を好むというのは本当か?」
「なんで小刀がしゃべるのか?」
「関係性がわかりづらくて、たとえ話として成功していないのでは?」
と言いたいことをおっしゃるみなさん。しかし、このお話は、
○新村出が大英博物館に遺されていたローマ字原本から苦心の末に読み解いた「イソポのハプラス」(イソポが作り物語の抜書き(下))にあるイソップ寓話であり、文禄二年(1593)・天草学林(コレジョ)版である。
と聞いた瞬間、
「岩波知識人の新村出さまが?」
「イソップ、ということは西洋の知的な本、こども心もよろこぶところの!」
「キリシタン、ということは「愛」なのね?」
などと勝手に「大切なもの」と考えて読んでくださるようになることでしょう。
わたくし的には、「下心」の中の「土仏の水嬲り」が心に残るのである。泥でできた仏像が、自ら意志を持って水を使おうとする。しかしもとが泥であるから、水を手にかけた瞬間に自らがどろどろと溶けていくのだ。わしなどが人間社会に生きていこう、とするのは、まさにこの比喩のとおりである。今日も溶けた。何十年も溶け続けで、もうほとんど無いのだ。わしは。