木枯らしの町を歩いていたら突然背後から
「おい」
と呼ばれた気がして振り向いた。・・・が、誰もいない。
「うーん」
わしは腕を組んで考えた。
最近忘れてしまっていて、思い出さねばならないひとがいたのではないか。もうずっと遠いむかしにこの世からいなくなったので、なかなか思い出せなくなっているひとなのだ。そのひとが、「思い出せ」と言うために呼んだのではないか。
「うーん」
考えても大したひとは思い浮かばぬ。しようがないので呼んだのは長いこと翻訳していない漁洋・王士ヰ謳カではなかったか、と勝手に思いなして、思い出したように「池北偶談」を開いてみた。
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はとこの王士襄の女房の張氏が、今年の夏、日の暮れ方にベッドでうとうとしていて、「はっ」と気づいたとき、
榻忽離故処尺許。
榻(とう)、たちまち故処を離るること尺許りなり。
ベッドがいつの間にかもとのところから一尺ばかり離れていた。
のであるという。
張氏、
―――だれが? なにをしたの?
と驚いて
四顧無所見。
四顧するも見るところ無し。
あたりを見回したが誰もいない。
と、頭上になにものかの気配がするので視線を向けたところ―――
睹梁間有小人二寸許、垂首下窺。
梁間に小人の二寸ばかりなるがありて、首を垂れて下を窺うを睹(み)る。
横柱の上に、いたのだ。背丈二寸ばかりのこびとである。頭を覗かせてこちらを見ているのだ。
小さな冠をかぶり黒い服を着ていた。ヒゲも眉もはっきりと見えた。
張氏は声も出ず、しばらくそのこびととにらみ合っていたそうだが、
久之飛去、遂失所在。
これを久しくして飛び去り、遂に所在を失う。
しばらくすると、ひょい、と飛ぶようにいなくなり、どこかに行ってしまった。
まぼろしかと疑ったが、そうではない。彼奴は飛び去るときに小さな冠を床に落としていったのである。
その冠、
以木為之、色黒如漆。
木を以てこれを為(つく)り、色黒きこと漆の如し。
木製で、漆の原液のように黒い色をしていた。
―――とはいえ、この小人が重いベッドをどうやって動かしえたものか、疑問は多い。
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そうでしょう。この世の中は疑問だらけだから、コビトちゃんの出現も、疑問の海から異界といわれるものの真実が、ちょこっと顔を出しただけのようなものなのだ。
「池北偶談」巻二十六(談異七)より。