李適之は唐・玄宗時代前半の「開元の治」を指導した名宰相であるが、
既貴且豪、常列鼎於前、以具膳羞。
既に貴かつ豪なれば、常に鼎を前に列(なら)べ、以て膳羞を具(そな)う。
宰相となって地位高く財産も積んでからは、つねに脚つきのナベである「鼎」を食卓に並べ、主食・副食を多数そろえて食事していた。
ある日のことである。
家童(召使)が大あわてで書斎に飛び込んできて、
「だんなさま、たいへんなことが出来いたしました!」
と告げたのであった。
なんと、
庭中鼎躍出相鬥。
庭中に鼎、躍り出でて相鬥(たたか)う。
中庭に、多数の鼎が飛び出して、お互いに闘いあっている。
というのである。
「な、ななななんと、そ、そそそそんなことがああああ」
驚いて庭に出てみると、家童のいうとおりである。
そこで、
酹酒自誓、而鬥亦不解。
酒を酹(そそ)ぎて自ら誓うも、鬥いまた解かず。
「酹」(ライ)は「灌ぐ」。ここでは聖なるお酒をまわりに降り注いで、神霊に祈ったのである。
酒を降り注いで祈ったが、鼎たちは闘いを止めようとしない。
やがて、
鼎耳及足皆落。
鼎の耳及び足みな落つ。
鼎の耳(手で持つところ)、脚など、出っ張ったところはすべて取れてしまった。
そうなってようやく鼎たちは相争うのをやめたのである。
さて、その翌日、李適之は宰相の任を解かれて宜春太守に左遷されたが、
至州、不旬日而終。
州に至りて旬日ならずして終わる。
任地に赴任して、十日もせぬうちに突然死したのであった。
時人、以李林甫迫殺之。
時人、以て李林甫のこれに迫り殺すならん、とす。
ひとびとは、政敵の李林甫が虐待して殺してしまったのだろう、と噂した。
林甫はさらに、適之の息子がおやじの死体を引き取りに宜春に赴いて都に帰ってくる途中、ひとに命じて途上の府の太守に適之の息子をでっち挙げの罪名で捕らえさせ、現地で
杖殺之。
これを杖殺す。
拷問して殺させてしまった。
これは、適之が宰相であったときにしばしば鼎で料理を煮て親しい者を集めて宴会を催した(李適之は杜甫の「飲中八仙の歌」にも取り上げられている酒豪である)が、林甫の陰湿なのを嫌がって招かなかった。このことを恨んだためだ、という。鼎が自ら相闘って自ら壊れたのは、故あってのことだったのである。
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おおコワいコワい。
唐の鄭処誨(字・延美)が玄宗皇帝とその時代に関わる逸話を集めた「明皇雑録」の巻上より。