平成22年11月26日(金) 目次へ 前回に戻る
夕べ(26日夜)は早目に寝ました。27日の朝にこの更新をしていますが、26日の日付とする。
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北宋の大文人・黄庭堅(字・魯直)が、
某頃見。
某、頃(さきごろ)見たり。
わしは、この間、この目で見たのじゃ・・・。
と、口にしたところによると、去年の冬、友人と散歩していたところ、都・開封の大刹・相国寺の門前に、ひょうたんの種を売る者があって、
背一葫蘆甚大。
一葫蘆の甚大なるを背にす。
背後には、巨大なひょうたんが陳列されていた。
―――おお。
その長さ、一丈(3メートル)近くもあろうか。見物の間から驚きの嘆息が出るほどの巨大さである。
それに形もいい。思わず抱きしめて、そのままそのひょうたんとともに湖や江に浮かんでしまいたいのでちゅ! ・・・と思うようなふくよかなひょうたんである。
その巨大ひょうたんの前で、ヒゲを長く生やした道士姿の男が、押し黙ったまま、手にした払子で巨大ひょうたんを指し、ついで彼の前に並べられた二十粒ほどのひょうたんの種を指す行為を繰り返していた。
ひょうたんの種の横には
一粒数百金
と値段を書いた紙札がおかれている。
「数百金」というのは、ほかの時代ですと金貨数百枚をいい、たいへんな大金をイメージする言葉ですが、宋代には「数百銭」を「数百金」と言い習わしていたらしいので、それほどの額ではありません。しかし、銭一貫(千枚)が五〜十万円ぐらいではないかと思うので、数百銭でも一〜三万円です。
ひょうたんの種の値段としては、あまりにも高い。普通のひょうたんの数百倍である。しかし、買おうと思って買えない値段でもない。みんなが買うのなら、あの巨大なひょうたんも珍しくはないものになってしまいますが、この値段であればそれほど売れないだろう。
「こんなものを手に入れましてな、ふほほほ・・・」
とひとに見せればたいていの人は驚くに違いない。
そう思うのであろうか、ときおり羽振りのよさそうな者や文人・官僚らしきものが手を出して種を買っていく。
そうこうするうちに後一つしか残らなくなった。
黄庭堅と友人は目を見合わせたのだそうだ。
―――あと一つになったぞ。
・・・・・・・さてさて。
「友人はがまんしきれなくなってついにそれを買ってしまった。しかし、その種を植えてみたところ、
至春種結仍瓠耳。
春に至りて、種、ただ瓠(コ)を結ぶのみ。
春になって結実したのは、ただのヘチマであったのだ。」
騙されたわけである。
しかし、黄庭堅の悔しがり方からみて、騙されたのは友人の方ではあるまい、とも思われたそうだ。
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南宋のひと、范公偁の「過庭録」より。年末が近づいてまいりました。うまい話には気をつけましょう。内川も来てくれないみたいだし。まあ来るはずないか・・・。たくろうさまやトヨタさまなどが来てくださるだけでもありがたいこと。わしらにとってはな。
「過庭」は「論語・季氏篇」に、孔子の息子の鯉が庭を過(よ)ぎったとき、庭に面していたおやじに声をかけられて教えを受けた逸話から、家庭でおやじから教えを受けることである。范公偁はその先祖に北宋の大文人・政治家の范仲淹・純仁親子がおり(公偁は范純仁のひ孫に当たるらしい)、おやじ(范純仁の孫に当たることになる)から、ご先祖さまの言行をいろいろ教えられたそうで、「おやじから聴いたこと」の意味で仲淹・純仁を中心とした北宋の名士たちの逸話を記したのが「過庭録」である。