平成22年11月28日(日) 目次へ 前回に戻る
←ありがたいありがたい・・・と土日を過しているうちに・・・。
ああ、また明日が、月曜日が来る! あと○時間。ということは、呼吸数で●●●ぐらい。ということは△△△△回瞬くうちにいいいい!
ああ、もうイヤだあ〜。
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ところで、時間について、
瞬息、須臾、頃刻、皆不久之詞、与釈氏一弾指間、一刹那頃之義同。
瞬息、須臾、頃刻というのは、みな久しからざるの詞、釈氏の「一弾指の間」「一刹那の頃」の義と同じなり。
(シナ語でいう)「瞬息」(またたいたり一呼吸するほどの時間)、「須臾」(しゅゆ。しばし)、「頃刻」(けいこく。しばらく)というのは、すべて「短い時間」の意味であり、おシャカさまの教え(以下「仏法」と言う。)の方でいう「指を弾くほどの間」「刹那の時間」というのも同じ意味である。
「瞬息、須臾、頃刻」の三者は、どれがどれより長いか短いかはっきりしないが、
釈氏分別甚備。
釈氏の分別は甚だ備わる。
仏法の方ではその分類・区別がたいへんしっかりしておる。
まず、
ア) 「新婆沙論」によれば、
120刹那=1怛刹那(ダツセツナ)
60怛刹那=1腊縛(セキバク)
20腊縛=1牟呼麦多(ムコバクタ)
30牟呼麦多=1昼夜=24時間
であるという。すなわち1刹那は・・・計算するのがめんどうくさいのですが、432万刹那=24時間・・・になるのかな? とすると、1刹那=0.02秒になるのかな? ・・・・・・・・・・・(A)
また、
イ) 「毘曇論」によれば、
1刹那の意味は「一念」(★)、1怛刹那の意味は「一瞬」であり、
60怛刹那=1羅婆(ラバ) (1羅婆の意味は「一息」である)
30羅婆=1摩睺羅(マゴラ) (1摩睺羅の意味は「一須臾」である)
という。そして、
ウ) 「僧祇律」によれば、
20念=1瞬
20瞬=1弾指
20弾指=1羅預(ラヨ)
20羅預=1須臾
30須臾=1日1夜=24時間
であるというので、480万念=24時間、すなわち1念(★によれば=1刹那)=約0.018秒 ・・・・・・・・・・(B)となりまして、だいたい
(A)=(B)
なので、だいたいこんなものだということがわかった。ということで、明日の会社までにあと何刹那あるのかな?
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「夷堅志」で名高い南宋の大知識人・洪容斎先生の「容斎随筆」第三筆に書いてありました。役に立つことも書いているのですね。先生はとにかく記録マニアなのです。
なお、「須臾」(しゅゆ)という言葉は一見インド語かなにかに見えますが、先秦の書(例えば、※)にすでに見えるれっきとした古代シナ語である。
※中庸第一章
道也者、不可須臾離也。可離非道也。
道なるものは須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。
「タオ」というのは、しばらくとてもそれから離れて(物の存在や人の行為が)あることのできないものなのである。それから離れて(物が存在したり人が行為したりして)いることができるのならば、それはもう既に「タオ」ではないのである。
だから立派なひとは(いつも「タオ」から離れないように、と)人に見えなくても戒め慎み、誰かから言われるのでない(「タオ」からの直接の)批判を恐れるのだ・・・云々。