平成22年10月12日(火)  目次へ  前回に戻る

←星類。あわれ。

今日も暑かったですね。

さて、今日は明の「七修類稿」(巻四十三)より、たいへん興味深い記事を御紹介しようと思います。(興味無いひとには無いでしょうけど)

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1.永楽十二年(1414)

榜葛剌国献一麒麟。

榜葛剌(ぼうから)国、一麒麟を献ず。

ベンガルより麒麟(きりん)一頭を献上してきた。

「榜葛剌」は「錫蘭」(セイロン)の西にあり、いにしえの「身毒国」(シンドゥ)だというので、ベンガル地方のことでしょう。

そして、ここでいう「麒麟」は現代の「キリン」(ジラフの和漢訳)ではありません。聖人が天下を治めるときにだけ出現とする聖なる獣です。

だいたい、シナではドウブツを四種類に分類し、そのそれぞれについて長(リーダー)があるのだ、と説明しています。

○鱗類(うろこのあるドウブツ)・・・その長は

○羽類(つばさを持つドウブツ。鳥のほか昆虫も多くこれに含まれる)・・・その長は鳳凰

○毛類(毛の生えたドウブツ。ケモノ)・・・その長は麒麟

○裸類(毛の生えてないドウブツ。すなわちニンゲン)・・・その長は聖人

龍や鳳凰や聖人に並ぶモノなのですから、麒麟の地位が如何に高いか、明らかでありましょう。

その麒麟が、献上されてきたのである。

たいへんなことであった。

ところが、

2.永楽十三年(1415)

秋、麻林国又献。

秋、麻林(まりん)国また献ず。

その翌年の秋、マリンバよりまた献上してきた。

「麻林」は明史巻326によれば中国を去ること絶遠の地で、ホラズムやアデンの方だということですから、アラビア半島・アフリカ東海岸の国である。

そんな遠くから「麒麟」が献上されてきたのだ。(ちなみに「明史」によると、麻林国からは、この「麒麟」と同時に「天馬」「神鹿」の類が献上されており、一部には「我が国には「四書五経大全」があるので「麒麟」等まで必要ではない」という声もあったそうですが、結局受け取ったとのこと。)

3.成化七年(1471)

と思いきや、今度は、

常徳沅江県産一麟。

常徳・沅江県に一麟を産す。

湖南・常徳府(いにしえの武陵である)の沅江県で麒麟が一頭生まれたのであった。

今度は内地である。

これは詳しく見たひとがあって記録されている。

形略如鹿、蹄及尾皆牛、身有鱗而額有角。

形ほぼ鹿の如く、蹄及び尾はみな牛、身に鱗ありて額に角あり。

形状はだいたい鹿のようであるが、ヒヅメと尾はウシに似、体にはウロコ、ひたいには角あった。

ほぼ伝説の麒麟そのものである。

ところが何と、

人以為怪、撃死。

人以て怪と為し、撃死す。

これを見た人民が「怪物である」とみなして撃ち殺してしまいやがったのだ。

郡の太守がその死骸を見て驚き、ミイラ化させて役所の倉庫にしまいこんでおいた。

最近それを見たひとの言によると、

惟空皮、鱗亦落矣。

ただ空皮のみにして、鱗また落ちたり。

もう皮しか残っておらず、あったといわれるウロコも落ちてしまっているらしく確認できない。

そうである。

4.嘉靖六年(1527)

すると今度は、

四月、舞陽産一麒麟。

四月、舞陽に一麒麟を産す。

この年の四月、河南の舞陽の地に麒麟一頭が生まれた。

舞陽は、いにしえ桃源郷があったとされる僻地の常徳と違って、中原のど真ん中の地である。そこに出現したのであるから、多くのひとが目撃した。

なんと、この麒麟は

口吐火而声如雷。

口は火を吐き、声は雷の如し。

口から火を吐いた。また鳴き声はカミナリの音のようであった。

というのだ。

惜野人不知、亦撃之死、但双角馬蹄後擡於省城、人人知也。

惜しむらくは野人知らず、またこれを撃ちて死(ころ)し、ただ双角・馬蹄、後に省城に擡げられ、人人知るなり。

惜しいことに、どんびゃくしょうめが何もわからずに、この麒麟も撃ち殺してしまいやがったのだ。後で、二本の角と馬のようなヒヅメが市街に持ち込まれたので、ひとびとははじめてこらが麒麟であったことを知ったのである。

「馬のヒヅメ」だったのですから、「3」の「ウシのヒヅメ」のものとは偶蹄類と奇蹄類で種類が違うようである。

さて。――――――――――

「七修類稿」の著者・郎仁宝は、ここで重大なことに気づいたのです。

是知、麟亦常有、但人不識、多致死耳。

是れ知る、麟また常に有るも、但、ひと識らず、多く死に致すのみ。

これらの事実から、実は麒麟というのは(伝説にいうような聖人の治世のみでなく)いつの時代にも存在しているものだ、ということがわかったのである。ただ、ひとは麒麟を見ても麒麟とは思わず、たいてい殺してしまっているのだ。

識者がその死骸を見て麒麟だった、と気づいた場合だけがわずかに伝わっているにすぎないのである。

これは大発見。

でも世の中、こういうことは多いんでしょうね。珍しいと思っていることが実はありふれたことだ、というような事案。(何十年前かの「密約」の公開に必死になっている政府がありますが、現在自分たちだってビデオをひた隠しにしている・・・。)

郎仁宝は、さらに、次のようにも記録しておられる。

―――ところで、これらの麒麟は

聞皆牛生也。

聞くに、みな牛の生ずるなり。

聞くところによるとみなウシから生まれたとのことである。

麒麟はウシの一種なのかも知れない、という研究結果にも達していたもよう。

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ちなみに、明・郎瑛、字・仁宝が浙江で、八十いくつの老齢を以てこの「七修類稿」を孜々として著述していたのは嘉靖四十年代のことですから、「4」の出現は「現在」よりわずかに四十年ほど前、われわれにとっての大阪万博(1970年)やサッポロ五輪(1972)のころのことになります。

ほとんど同時代のことじゃないか、とも思いますが、実はわずか40年前には両翼80メートルちょっとの球場でぼこぼこホームランを打ちまくっている背番号1がいて、さらにそのひとをセリーグの投手が来る日も来る日も敬遠していた、その姿をおっさんたちがスタンドでタバコ吸いながら見ていた、などという信じられない時代、「不思議の国」だったのです。もうみんな忘れて848という数字が残るだけになってしまっているのだが・・・。(わたしも王さんは尊敬してますが、事実として。わずか10数年前にはそのひとに生卵ぶつけていたやつらもいるんだよー)

 

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