平成22年10月6日(水) 目次へ 前回に戻る
例えばホッシーとスラィリーが死ぬまで闘わされるとする・・・。
明の袁宏道(中郎)の「随筆」を読んでいたら、次のような記事があった。
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以前、西山を通り過ぎたときのことである。
見児童取松間大蟻。
児童の松間の大蟻を取るを見る。
がきどもが、松の木にたかっていた大きなアリをつかまえているのを見かけた。
何気無くみていると、がきどもは、大アリの
剪去頭上双鬚。
頭上の双鬚を剪去す。
頭の上の二本のヒゲをちぎりとってしまった。
頭の上の二本のヒゲ、とは言うまでもなく触角です。
すると、大アリたちは
彼此鬥咬。
彼此、鬥咬す。
お互いに咬み付き合って闘いはじめたのである。
わたしが見つめているのに気づいたがきどもは、得意げに
至死不休。
死に至るも休まず。
「こいつら、このまま死ぬまで闘い続けるんでちゅよ」
と教えてくれた。
「へー。そうなんだ」
「そうなんでちゅよ」
がきどもは言う、
蟻以鬚為眼。凡行動之時、先以鬚左右審視、然後疾趨。一抉其鬚、即不能行。既憤不見、因以死鬥。
蟻は鬚を以て眼と為す。およそ行動の時、まず鬚を以て左右を審視し、しかる後に疾趨す。ひとたびその鬚を抉るに即ち行くあたわず。既に憤するも見えず、よりて以て死鬥す。
「アリはヒゲが目なのでちゅ。いつもは、行動する前に、まずヒゲで左右を調べまして、それからすばやく動く。そのアリからヒゲをちぎり取りますと、もう移動することができません。それで怒りたけっているところへ(相手を与えてやると、相手が見えませんから)死ぬまで闘うのでちゅよ。」
と。
見ていると確かにそうだ。ヒゲをとられた大アリたちはいつまでも咬み付き合っている。
さて。
蟻以鬚視、古未前聞。且蟻未嘗無目。
蟻は鬚を以て視る、とはいにしえよりいまだ前聞せず。かつ、蟻はいまだかつて目無きにあらず。
「アリがヒゲを以て見る」とは古人の記録の中に見たことがない。それに、アリには目が無いわけでなく、小さな目がある。
必待鬚而行。亦異事也。識之以俟博物者。
必ず鬚を待ちて行く。また異事なり。これを識(しる)して以て博物者を俟つ。
それなのにヒゲがあってはじめて行動するとは、どういうことなのであろうか。(自分にはよくわからないので、)ここにこれを記録して、すぐれた博物学者が解説してくれるのを待つことにしよう。
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以上、「袁中郎随筆」より「鬥蟻」。
袁中郎といえば公安の袁氏三兄弟の一人、晩明を代表する文人であり、その文章にあふれる機知、ロマンチシズム、憂愁、合理性、あるいは自謔・・・、まるで近代の知性を彷彿とさせる大才子である。
そのひとが、アリの触角の役割を知らず、がきどもに教えられるとは・・・。
われわれゲンダイ人はすぐれていますから、ありさんとありさんがこっつんこ、の歌を通してこどもだって知っていることですよ。如何に昔のひとがダメでわれわれがすぐれているかの証拠になるような文章ですね。
ところで、アリは眼があってもヒゲが無いと動けない―――。アリのヒゲはニンゲンの何に当たるのでしょうか。
「○○○のスイーツを食べないとおとなグルメじゃないらしいぞ」「勝ち組女子は××温泉に行っているみたいよ」「ネットで見たら自分の意見は多数派みたい、ああ安心」・・・などなど、何かに追われるように「情報」に向かって趨るひとたちは、ある日突然テレビもネットも新聞も無くなったら、「自分の目」で見ることにするのでしょうか、それとも死に至るまでお互いに咬みあうのかな。