平成22年10月3日(日) 目次へ 前回に戻る
お師匠さまのところで何とか治りました。自分がナニモノか思い出してきた。
「もう忘れるなよ」
「へい」
と言いまして、しばらくはまた肝冷斎に戻ることになりました。
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北宋の晏景初があるひとのお墓に刻む文章(いわゆる「墓誌」)を書いた。
我ながらそこそこよい出来だと思い、しばらくしてからその原稿を友人の朱希真に見せた。
朱希真はかなりじっくり読んで、読み終わると「ううーん」とヒゲをひねりながら、
甚妙。
甚だ妙なり。
「よく出来ておるなあ・・・」
と言ったきり、難しい顔をしてだまりこくってしまった。
景初は
苦問之。
これに苦問す。
苦々しい思いで「何か問題があるのか」と問うた。
希真は「うーん」とうなりながら、文章の中の
○○(人名)有文集十巻。
○○、文集十巻あり。
亡くなった○○には、文集が十巻あった。
というところを指差して、
欠。
「足らないような・・・」
と答えた。
「むう」
景初は身を乗り出して、そこをじっと見ながら、
問、欠何字。
問う、「何字を欠くか」と。
「何文字足らないと思うのか」と問うた。
希真、黙って指を四本立てた。
「な、なるほど・・・」
景初は何度も頷いたそうである。
早速、景初は墓誌の依頼者に連絡して既に刻みはじめられていた文章を変更した。
変更したのは、結局、上記の
○○有文集十巻。
の後に、「蔵于家」の三字を足したのである。
○○有文集十巻、蔵于家。
○○、文集十巻ありて、家に蔵す。
亡くなった○○には、文集が十巻あって、出版されずに自宅にしまいこまれている。
はじめ朱希真は、墓誌の対象となる故人が文章家としてはまったくダメなひとであったのに、その人に「文集十巻があった」という記述を読んで、「不行于世」の四文字を加えるべきだと考えたのである。
○○有文集十巻、不行于世。
○○、文集十巻あるも、世に行われず。
亡くなった○○には、文集が十巻あるが、出版もされず世間に広く読まれてはいない。
しかし、既に文章が墓碑に刻まれていることを思ってはっきり言えなかったのだ。
晏景初も気づいてこの四文字を挿入しようと考えたが、既に文章が刻まれていたので、できるだけ少ない修正ですませようと、三文字だけにしたのだということである。
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石に刻んでしまったものを直すのは大変でしたでしょうね。(石に刻んだごとく安易に修正できるわけではないんだから早くビデオ出せや、と思うのですが、一応廟堂の方々にとっては「外交カード」なのかな。)
南宋・陸放翁「老学庵筆記」巻一より。