平成22年9月28日(火) 目次へ 前回に戻る
サッポロSNOWY、こちらは寒い。二三日寒くて体調壊してましたので更新できませんでした・・・と、誰か知らん間に更新したひとがいるのだな。これはムシだ、ムシ。
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劉福通らが兵を起こして「紅巾」を以てそのしるしとしたのは至正十一年(1351)五月、すでに浙江では方国珍の勢力が強大になっていたころである。
ところで、これより数年前、道教の聖地・江蘇の茅山の一道観に拠って各地を荒らしまわったのが、
花山賊
だ。
彼らは頭目・畢四以下
僅三十六人、内一婦女尤勇捷。
僅かに三十六人、うち一婦女もっとも勇捷なり。
わずかに三十六人で構成され、中でもひとりの女性メンバーが、もっとも勇敢にして強かった。
花山賊は
縦横出没、略無忌憚。
縦横に出没して、ほぼ忌憚無し。
ほしいままにあちこちに出没し、ほとんどはばかるところがなかった。
各地で法網を破り、好き放題したのである。この間、
始終三月余、三省発兵、不能収捕、殺傷官軍無数。
始終三月余り、三省兵を発するも収捕するあたわず、官軍を殺傷すること無数なり。
三ヶ月あまりにわたって、三つの省が鎮圧軍を出したが彼らを捕らえることができず、一方、官軍の方の死傷者は数え切れないほどであった。
朝廷ではこれに悩んだが、ついに一策を按じて、
召募鹺徒朱陳。
鹺(サ)徒の朱陳を召募す。
「鹺」(サ)は本来、大いにしおからい、からすぎて苦い、という味覚の形容詞であるが、「鹺使」が「塩運使」(塩等の流通を掌る現業官庁)の略称に使われるように、「塩を運ぶ者」を指す隠語で、鹺徒は塩商人、それもおそらく平時なら死罪に問われる密売人をいう。
塩の密売人である朱陳を招集した。
政府は朱陳に塩の仲買の権利と多額の金品を提示し、その仲間たち(密売人たち)を集めて「花山賊」を討たしめたのである。
朱陳らはあたりの地理に詳しい者を買収し、屈強の密売人たち百余人で夜のうちに道観を取り囲み、夜明けとともに
一皷而擒之。
一皷してこれを擒う。
陣太鼓を叩いて一気に三十六人を捕らえてしまった。
かくして花山賊らは、公衆の面前で残虐に処刑され、この件は一件落着――――。
しかし、
従此天下之人、視官軍為無用。不三五年、自河以南、盗賊充斥。
これより天下のひと、官軍を視ること無用と為す。三五年ならずして河より以南に盗賊充斥せり。
これ以降、天下の人民らは官軍など役に立たぬと見下すようになり、三〜五年も経たないうちに黄河以南には盗賊がひしめきあうようになったのである。
其数也夫。
それ数なるかな。
予測のつくことではあった。
人民の目は厳しいのである。
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これは「南村輟耕録」巻二十八に出てくる元末のお話。
釈放してもさらに揉めることは、予測のつくことではあった。しかしこの先、予測のつかぬことも起こりそう。