平成22年8月27日(金) 目次へ 前回に戻る
天辺の大月
夜遅く、旅の詩人・川端木偶がやってきました。
少し酔うているらしく、わしの顔を見下ろすようにしながら「ふふん」と鼻息吐きおった。
そして、高吟して曰く、
雲をおしわけておれはこの手で妖星を打ち掃ってやろうとした!
だが何と、脚をすべらして雲の上から落ちてしまった・・・
・・・・・気がつけばここは江戸の町だ。
江戸の町では、井戸の底の馬鹿ガエルが、何が怖いのかびいびいと心配して啼きまくっている。
そしてこの町の天上の月は、のほほんと大きいばかりで、高い志も明智も持ちはしない。
ところでおれは今、手足を鎖につながれ、この町の牢に囚われていて、
明日にも大きな鍋の中でぐつぐつと煮られる刑罰に遭うらしいが、実家に手紙を書くよしもない。
それでもまだ志は熱く、夢の中では剣の音もしゃらしゃら巨大なくじらどもを斬り刻んでいるのだ。
きみよ。やがて、きみは野辺の石のかたわらに立つことがあるだろう。
幾日か風に吹かれ、幾夜も雨に降られ、その石のおもては青青と苔むしているだろうが、
それでも誰かの刻んでくれたこのおれの名はまだたどれるだろう。
―――このおれの墓に刻まれるおれの名は「日本のむかしのキ●チガイ」だ。
と――――
近所の家の窓が開いて、
「うるさいぞ! 今何時だと思っているんだ!」
と怒鳴り声が聞こえたので、川端木偶はしょんぼりと押し黙ったものであった。
さて。川端木偶は自分の墓石の話までして、斬るとか打ち払うとか、何かおそろしいことを考えているのではないか、とご心配の方が出てくるような過激な歌を歌っておりますが、この歌は、頼三樹三郎の「獄中詩」
排雲欲手掃妖熒、 雲を排し妖熒を手掃せんとするも、
失脚墜来江戸城。 脚を失うて墜ち来たる、江戸の城。
井底痴蛙過憂慮、 井底の痴蛙は憂慮に過ぎ、
天辺大月欠高明。 天辺の大月は高明を欠く。
身臨鼎鑊家無信、 身は鼎鑊(テイカク)に臨みて家に信無く、
夢斬鯨鯢剣有声、 夢に鯨鯢(ゲイゲイ)を斬れば剣に声有り。
風雨他年苔石面、 風雨の他年、苔石の面に
誰題日本古狂生。 誰か題せん、日本古狂生。
を訳しているだけで、自分で何かでかいことしようなどという度胸を決めているわけではないので、ご安心ください。
ただし、三樹・頼三樹三郎(1825〜1859。ご承知のとおり山陽外史の三男である)のこの詩自体は、安政の大獄で捕まって、斬に処せらるる前に牢内で詠んだといい、「絶命詞」(辞世のうた)と伝えられる有名なやつで、きつい覚悟のもとに詠まれたものである。
簡単な語釈を附しておきます。
「熒」(ケイ)は「ひかり」ですが、ここの意味は「熒惑」(ケイワク)のことで、不吉な天体とされる「火星」(マース)のこと。幕閣の大官、特に井伊直弼さんのことを喩えているのだろうと思います。
「井底の痴蛙」は、井戸の中のかわず。「荘子」(秋水篇)にいう、
井蛙不可以語于海者、拘于虚也。
井蛙の以て海において語るべからざるは、虚に拘わるなり。
井戸の中のかわずが海のことを語れないのは、(井戸の中という)うその世界に捉えられてしまっているからである。
と。
もちろん、ここでは頑迷固陋の守旧派どもを指している。
「天辺の大月」は将軍さまを喩えているのだろう。
「鼎鑊」(テイカク)は、「鼎」(かなえ)と「鑊」(かま)ですが、「鼎鑊」と熟して「釜茹での刑」のことをいう。
「古狂」というのは、「論語」(陽貨篇)の孔子の美しいことば(←といっても、実際にはこんなに覚えやすく話してくれたわけではないと思いますが)、
古者民有三疾。今也或是之亡也。
古しえは民に三疾あり。今やあるいはこれ亡きなり。
古代の民には三つの悪いところがあったものじゃ。現代ではどうもそれは無くなったようじゃなあ。
「三疾」とは「狂」(やりすぎ)、「矜」(がんこ)、「愚」(愚か者)の三つです。
ここまでだと現代は古代よりよくなったように聞こえますが、そうではない。それぞれが変質してしまっただけなのだ。
@古之狂也、肆。今之狂也、蕩。
いにしえの狂や、肆(し)。今の狂や、蕩(とう)。
むかしの狂人というのは小さいことにこだわらぬ一本気なひとのことだったが、今の狂人は好き放題にしているだけではないか。
A古之矜也、廉。今之矜也、忿戻。
いにしえの矜や、廉。今の矜や、忿戻(ふんれい)。
むかしの頑固者というのは気難しく厳格なひとのことだったが、今の頑固者はいつも喧嘩腰だというだけではないか。
B古之愚也、直。今之愚也、詐而已矣。
いにしえの愚や、直。今の愚や、詐なるのみなり。
むかしの愚か者というのは馬鹿正直なひとのことだったが、今の愚か者は自分のことだけを考えて回りが見えないだけではないか。
「なるほど!・・・もしかしたら、古か今かは知らんけど、狂=前幹事長、矜=現代表、愚(ルーピー)=前代表の三バ烏のことか!」
と思わされますが、閑話休題。頼三樹の「古狂生」というのは@に基づいた言葉である(「生」は「・・・なひと」という程度の意味)。「いにしえの狂人」であって今の狂ではない、というているのです。