平成22年8月17日(火) 目次へ 前回に戻る
大魚は案外多く出現するものでございます。
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同治丙寅年(1866)三月、わし(←庸闕ヨ老人)が李鴻章軍の海運の総括担当をしていたとき、輪船(蒸気船のこと)に乗って上海から天津に赴くことがあった。
途中、
黒水洋
を通ったときのことじゃ。―――
一般に黒水洋は「くろしお」のことと解されています。「くろしお」というのは、本当にまわりの海域と区別がつくぐらいくろぐろと見えるのだそうです。このひとの乗った船が琉球弧から太平洋に抜けていなかったとしたら(しているはずはないのですが)、これはいわゆる黒潮分流(「対馬海流」)というやつだったのでございましょう。
―――と、
忽見海中湧起一山、高数十丈、俄頃即没。
たちまち海中に一山の湧起するを見る、高さ数十丈、俄頃にして即ち没す。
突然、海の中に一つの山が湧き起こってきたのが見えた。その高さは数十丈に至ったが、あれよあれよという間にまた海中に消えてしまった。
清代の一丈は約3.2メートル。
「な、なんじゃ、あれは」
と驚いていると、
舟人曰、此大魚也。
舟人曰く、「これ大魚なり」と。
船乗りたちは落ち着いたもので、「あれは「大きな魚」でさあ」と教えてくれた。
その後、わしは南匯県の行政責任者として赴任したことがあったが、そのときみた県の古記録によると、
国初時、有大魚過海口、其高如山、蠕蠕而行、閲七昼夜始尽、終未見其首尾。
国初の時、大魚ありて海口を過ぐるに、その高さ山の如く、蠕蠕として行き、七昼夜を閲して始めて尽き、ついにいまだその首尾を見ず。
清のはじめごろ(17世紀半ば)、大きな魚が来まして江の河口を通過した。その高さは山のようで、うねうねとうねりながら通り、七日七晩でようやく通り過ぎた。とうとう頭と尾を見ることはできなかった。
という記録があった。
以前はこんな陸に近いところにまで来ていたのである。
ところで、わしは辛未年(1871)に「上海県志」の編集の用務に携わるようになって同県志を詳細に読んだ際、次のような一条があることに気づいた。
明嘉靖年間、有一大鹿浮海而上。県官率衆掉船撃殺之。
明の嘉靖年間、一大鹿の浮海して上るあり。県官衆を率いて船を掉(とう)してこれを撃殺す。
明の嘉靖年間(1522〜1566)のこと、一頭の大きな鹿が海に浮んでやってきて、上陸したことがあった。県の役人は人民に命じて船を操り、これを撃ち殺した。
大魚でなく、海から来た大きな鹿の記録は珍しい。記録者も詳細を伝えようと思ったのであろう、わざわざ
重五百余觔
重さ五百余觔なり。
と記されていた。
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「觔」(キン)=「斤」で、一斤は600グラムぐらいですから、五百斤では300キログロムぐらいで驚くほどデカくないのがちょっとさびしいところである。
清末の陳其元(太平天国鎮圧時に李鴻章の幕僚をしていた)の「庸闕ヨ筆記」巻六より。こちらも参照のこと。庸闕ヨ老人・陳其元はたいへん有能な実務家・経世家だったそうですが、その筆記はなかなか変なことも記録しているのでおもしろいです。