平成22年8月14日(土) 目次へ 前回に戻る
さて、天竺の鹿脚女の物語。
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吠舎厘(ヴェーサリン)の国は北インドと中インドの境に位置する古い国である。
むかし、この国に一人の修行者(原文には「仙人」とあるもシナの「仙人」と紛れてしまうので、「修行者」と訳しておく。)があった。
修行者は岩窟に隠れ住んでいたが、春のあたたかい日に、渓流において法衣を脱ぎ捨てて全裸となり、自らの体と衣を洗っていた。
ところがこのとき、その下流で雌鹿が水を飲んでいたのである。
この雌鹿が、修行者の全裸に感じ、またその法衣に付着していた体液を飲んで、
感生女子。
感じて女子を生ず。
感じ、うごめくことあってオンナの子を産んだ。
修行者はその子を見て自分の子であることを知り、引き取って養ったのであるが、長ずるに及んで、
姿貌過人、惟脚似鹿。
姿貌ひとに過ぐるも、ただ脚は鹿に似たり。
すがたかたちはどんなひとよりも美しい少女に成長したが、ただ脚だけは鹿の脚であった。
あるとき、修行者はたいせつな火種を消してしまった。そこで、この少女に隣山の隠者のところまで火種をもらいに行ってくるように命じた。
「普通の人間にはたいへんな山道であるが、おまえの脚なら大したことなかろうからな」
少女は一山を越えて別の隠者の庵に向かったが、ここに不思議なことが起こった。
足所履地、迹有蓮花。
足の履むところの地、あとに蓮花あり。
少女の奇形の足が踏んだところには、すべてハスの花が咲いたのである。
この「ハスの花」はシナの常套である纏足の比喩ではなく、ほんとのハスの花である。
隣山の隠者はそのハスの花を見、
「これは不思議じゃ。おまえの足はどうなっているのかのう」
と少女に脚をさらけ出させた。
「ほほう・・・、ひひひ、これはこれは、珍しい足じゃのう・・・。そ、そうか、火か、火がほしいのか、すぐに・・・」
そこで隠者は少し考えた。
「い、いや、すぐには火はやれぬ。その足を、のう・・・」
隠者は
深以奇之、令其繞廬。
深く以てこれを奇とし、それに廬を繞(めぐ)らしむ。
「ああ、不思議じゃのう、珍しいのう・・・」と口元を緩ませながら、少女に自分の庵の回りを一周させた。
その足跡にハスの花が咲き、隠者の庵の回りは美しいハスの畑のようになった。
「よし、では火種をやろう」
こうして少女は火種を得て、父である修行者のもとに戻ったのである。
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数日後、この地の王がわずかな供を連れて、隠者の住む山のあたりまで狩りにやってきた。
王は、周囲一面にハスの花が咲いている美しい庵を目にし、
「今日はこの庵に宿を借りようではないか」
と隠者の庵に宿泊し、そのハスの花の秘密を聴きだしたのだった。
「なんと、珍しいオンナであるな」
王は興味を持ち、
尋迹以求、悦其奇怪、同載而返。
迹を尋ねて以て求め、その奇怪を悦び、同載して返る。
足跡(すなわちハスの花)をつけて少女のところに至り、その奇形の足を
「これはこれは・・・ぐふふふ」
と悦んで、同じ車に載せて王宮に連れ帰ったのだった。
車の中で撫でさすったりしたのでしょうなあ。
王宮に着きますと、王宮付きの占い師(「相師」)がその女のかおかたちを見て、驚いて言うた。
当生千子。
まさに千子を生ずべし。
「おお、この方は、千人の王子をお生みになりましょうぞ」
それを聞いて、王宮のほかの女たちが治まらぬ。
この野育ちの奇形の女が、王の寵愛を独占して数人の子を生むのみでも許しがたいのに、千人もの子を産むとは!
やがて少女のハラはふくらみはじめ、人間の子を孕むべき日月(280日ぐらいでしたっけ)を経て、
生一蓮花。花有千葉、葉坐一子。
一蓮花を生ず。花に千葉あり、葉に一子坐せり。
一株のハスの花を産んだのだった。その花には千の葉がついており、その葉ごとに一人づつ、小さな子どもが座っていた。
王宮の女たちは
「これは不吉なものじゃ!」
と騒ぎ出し、このハスを河に投じてしまった。
ハスの花は千の子どもを乗せたまま、
随波泛濫。
波に随いて泛濫(ハンラン)す。
波のまにまに浮び流されて行ったのだった。・・・・・・・・・・・・・・・・・
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途中ですが、今日はここまでにします。単に長くなっただけではなくて、あまりの荒唐無稽に疲れてきた。頭が東アジア型なので、こういう天竺型のヨタ話にはついていけぬところもあります。
「大唐西域記」巻七より。
以前も書きましたが、「大唐西域記」は玄奘法師から国際情勢に関する公式の報告書として朝廷に提出された文書です。このヨタ話も、当時の廟堂の高官たちは
「むむ、なるほど、鹿の足」
「子どもが千人、小さな子ども」
などとメモを取りながら読んでいたはずで、マジメな顔して読んでいる姿を思うにほほえましいのである。