平成22年8月8日(日)  目次へ  前回に戻る

今日は飯能の天覧山から富士山が見えた。すさまじく暑いのですが、天上のはるかな高みでは、もう秋なのでしょうなあ。

さて、今日も寝ます。寝る前にみなさまを教育しておきます。以下を読んでちゃんと勉強しておくように。

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@遇飲酒時須飲酒。

酒を飲む時に遇えば、すべからく酒を飲むべし。

お酒を飲める場があったら、どんどんお酒を飲まねばならぬ。

分別したり遠慮したりは要らないので、飲めるときには飲みなされ。そのときには羽目も外してよろしい。

しかし、そのような場でないのに、「いいだろう」と思ったり「おれにも寄越せ」と求めて飲んではいけません。

A得饒人処且饒人。

人を饒(ゆた)かにするの処を得ば、まさに人を饒かにせん。

他人を豊かにしてやれる地位や財産を得たら、他人を豊かにしてあげようじゃないか。

そういう状況にないのなら、しかたありませんので他人にはかまわずに生きていきましょう。

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と、これは、「呉下諺聯」(巻二)に書いてあった。清の末ごろの江南地方(呉下)ではこんな言い習わしがあった、ということである。(それにしてもこのオモシロい本を一年半も引用してなかったんですね。みなさん、ほんとに我慢強いなあ。わたしが読者だったら「あれを早く引いてくだされ」とお願いしてしまうところですガネ。)

同書の著者である北荘素史・王有光の評言(解説みたいなもの)によれば、

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@について

此随遇而安、不遇不必貪杯。既遇何辞一酔、下一須字、何等従容自在。

これ遇に随いて安んじ、遇わざれば必ずしも杯を貪らざれ。既に遇えば何ぞ一酔を辞さん、下の一「須」字、何等の従容自在ぞ。

このことは、その場に遇えばその場に随って安んじよ、その場に遇わないのに無理に酒杯を求めむさぼってはならぬ、ということである。もしその場に遇ったのであれば、どうして酔わずにすませられようか。下の方に「すべからく」という文字が入っているのだから、自由自在にやらせてもらえ、ということである。

蘇東坡の言葉に、

酒能乱性、仏家忌之。酒能養性、仙家愛之。

酒はよく性を乱す、(ゆえに)仏家これを忌む。酒はよく性を養う、(ゆえに)仙家これを愛す。

というのがある。

お酒を飲むとひとの心は乱されてしまう。だから、仏教ではお酒を飲むことを禁止している。お酒を飲むとひとの心はのびやかになる。だから、道教ではお酒を飲むことを推奨している。

というのだ。要は目的に応じて、適切に振舞え、ということであろう。

わしなんか、

於無酒時作仏、於有酒時成仙。

酒無きときには仏と作(な)り、酒有るときには仙と成る。

お酒ぬきのときはホトケさまのように無欲で慈悲にあふれ、お酒を飲んだときには仙人さまのように快活で自由になる。

のである。さて、今晩はどちらになるのかな。

Aについて

秀才家独居深念、不罵人不打人不殺人、自謂饒人之至矣。

秀才家は独居して深念するに、人を罵らず、人を打たず、人を殺さず、自ら謂う、人を饒かにするの至りなり、と。

役人になれない読書人のお方は、ひとり自宅で深く思いを致し、考えることであろう。

「わしは人をののしることもなく、人をぶん殴る(よう部下に命ずる)こともなく、人を殺す(よう判決を下す)こともない。なんとも他人を豊かにしてやっているというべきではないか」と。

そうはいうが、おまえさんは高い地位にお着きでないからそんなことが言えるだけなのじゃ。

一旦得到饒人之処、偏是要罵要打要殺。

一旦饒人の処に到るを得ば、ひとえにこれ罵を要し打を要し殺を要す。

いつの日にか人を豊かにしてやれる地位に至ったならば、その地位においては、ひとを罵り、人をぶん殴り、人を殺すことばかり考えることになるだろう。

当此而饒人、方是饒人。

此れに当って人を饒かにせば、まさにこれ人を饒かにするなり。

そのときに、それでも他人を豊かにしてやろうとするなら、それは本当に他人を豊かにする、ということである。

且字一下、正似紅炉点雪。

「且」字一下するは、まさに紅炉の雪に点ずるに似たり。

「まさに・・・せん」=「(そのときには)そうしよう」という(将来の意志をあらわす)文字が入っていることこそ、白い雪の原に赤い火の入った炉が一つ置いてあるよう(に、全体の中の肝要のところなの)である。

その地位にないときにはそうしよう、と思っていても、なかなかそのときになるとそうはできない、ということが「且」の中にこめられているのだ。

権力を持ち、社会を動かしている方も、このことに気がつけば、ことの重大さにぞぞぞと寒気がし、深く反省することになるのではありませんかな。

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と言っておりますが、王有光は当時の社会や知識人たちのあり方に対して批判的な目を向けていた「ひねくれもの」の読書人ですから、こんなひとの解釈を真に受けていたら科挙に通りませんぞーーー! 気をつけなければなりません。

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ちなみに、昨日の答え合わせ。

○藻の花や金魚にかかる伊予簾 (イ 榎本其角)

○河童(かわたろ)の恋する宿や夏の月 (ウ 与謝蕪村)

○枯野原汽車に化けたる狸あり  (エ 夏目漱石)

○鳶ひよろひいよろ神の御立ちげな  (オ 小林一茶) 

狂歌師の朱楽菅江を除いて、あとはイ〜オを順番に並べればいいだけです。縦のものを横にするのもイヤなので、イ〜オを並べ替えるのもイヤなんです。

なお、最後の句の季語(季節を表現する語)は「神の御立ち」になりますね(鳶は一年中いる鳥なので、それだけでは季語にはならない)。旧暦十月は出雲に神様が集まるので神無月(出雲では神有月)という、出雲に向かって神様が出発するのをとんびが笛のような鳴き声で先導するのを句にしておりますので、「神様の旅立ち」→神無月のはじめ→初冬の句、になるのである。

ヒマなひとが割といたようで、正答率は50パーセントである。

 

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