「怪」
暑い。どこか暗く涼しいところでじっとしていたいですね。土管の中とか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで、わたしは江蘇・崑山に住んでおりますが、同じ村に王思位というひとがおりましてな。
そのひとの家に
有怪。
怪あり。
おかしなことが起こったのであった。
ある日、かまどの上に祀ってあった竈神のお札が床に落ちていたことが、ことの始まりであったそうだ。
王思位の母にあたる老婆が、子どものいたずらか何かであろうと思いながら、
「えんぎの悪いことをするもんではないのにのう」
とお札を拾い上げ、そろそろメシが炊けたころ、と
及掲釜蓋、乃大驚。
釜蓋を掲げるに及んで、すなわち大いに驚く。
お釜のフタを開けたところ、たいへん驚くべきことが起こっていたのである。
釜中糜尽為糞穢矣。
釜中の糜、ことごとく糞穢となれり。
お釜の中のごはんが、すべてきたないゴミに変わってしまっていたのだ。
それ以来、毎日のように、こちらにあった物がいつの間にか別のところに移っていたり、誰もいないのに物音が聞こえたり、不思議なことが起こるようになったのである。
近在で有名なまじない師の劉順之さまを呼んできてお祓いをしてもらったが、
法壇鐘鼓方鳴、而空中亦拍磚如響。
法壇に鐘鼓ならび鳴るに、空中また響の如くに磚(セン)を拍(う)つ。
祭壇を設けて、お弟子とともに鐘や太鼓を鳴らしはじめると、(それをからかうかのように)まるでこだまのように空中でかわらけを叩くような音が聞こえだしたのである。
結局、劉術師のお祓いも、これだけで終わってしまい、翌日からも「怪」はおさまることはなかった。
また、これは少々わし自身の一族の恥じにもなることであるが、同族の龔銑という者、儒学をかじっていて、
「こちらが堂々としていれば恐れることは何も無いのです」
と言うて王の家の厨房に行き、
大呼、邪不勝正。
大いに「邪は正に勝たず」と呼ばう。
大声で、
「よこしまなものは正しいものに勝つことはできぬのだぞ・・・」
と宣言した。
彼はそれに続けて、「だからここから出ていけ」のようなことを言おうとしたらしいのだが、最初の言葉の
声未絶、而奇穢即沾其衣。
声いまだ絶せざるに、奇穢すなわちその衣を沾(うるお)す。
声がまだ終わりきらないうちに、特別にきたないもの(糞尿であろう)で衣服がぐっしょりと濡れてしまった。
龔銑は次の言葉を声にする前に、鼻をつまんで逃げ出した、という。
半年ぐらいしてから、王思位は、厨房から家の外につながっていた蓋のある下水溝(「陰溝」)が怪しいと思い、
塞之、怪遂絶。
これを塞ぐに、怪ついに絶す。
これをふさいでみたところ、不思議なことは起こらなくなった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
清・龔煒「巣林筆談」巻六より。
ゲンダイのすぐれたわたくしどもの目から見ますと、これは典型的なポルターガイスト(騒霊)現象であって不思議でも何でもない(←「ありえない」と思っているひとはいるのでしょうか?)わけですが、18世紀のひとの目には不思議な事件に映ったのでしょうかねえ。
「怪」が下水溝を通路にしていた、と言いたいのでしょうが、物理法則を無視したいたずらができるのに、通路を塞がれるとやってこれなくなる、という発想こそ不思議な気もいたします・・・が、18世紀の東洋の、しかも農村での出来事だから、「何でもあり」でマジメに考えようとする方がオロカというものなのでしょう。(現政権の政策を論ずるのと同じぐらい・・・)