平成22年8月2日(月)  目次へ  前回に戻る

秦の恵王が亡くなり、その太子が即位した。秦の武王(在位前310〜前306)である。

武王は恵王の異母弟で知者として評判の高い樗里子(「子」は「子爵」の「子」である)を右丞相に、下蔡のひと甘茂を左丞相に任命した。

あるとき、武王は甘茂に

「(途中で邪魔をする韓を征伐して)周の王国との間に車の通れる道を通じることができれば、わしは死んでも朽ちない名を遺すことができるのだがなあ・・・」

とつぶやいたことがあった。

しかし、周王国と秦の間には、韓の三郡(宜陽、上党、南陽)があり、いずれも人口も多く守備も固い、蓄えも豊かでなかなか攻略できる地ではない。

甘茂は、息壌という町で王に謁見し、次のように述べた。

曾母投杼

「・・・・というお話がございます。

ところで、いまわたくしのカシコさは曾参の比ではございません。王さまがやつがれを信用してくださっておるといいましても、曾参の母が息子を信用しておったほどのことはございますまい。そして、やつがれを疑う者・やつがれの敵は町のひと三人というわけではございませぬ。例えば、王さまのおじさまに当たられるかの賢者・樗里子さまも・・・。いや、それはともかくといたしまして、もし王さまが、やつがれにどうしても韓の三郡を落としてまいれというのでございますならが、次のお話をお聴きくだされねばなりませぬ」

「ほう。それはどういう話じゃな」

「さよう・・・、むかし、

魏文侯令楽羊将而伐中山、三年而抜之。

魏文侯、楽羊を将として中山を伐たしむるに、三年にしてこれを抜けり。

魏の文侯(在位:前445〜前396)が楽羊を将軍として、中山の国を征伐させました。中山は地勢堅固にしてその君も人民に愛されておりましたから、三年かかってようやくこれを降すことができたのでございます。

さて、楽羊は凱旋し、いよいよ論功を行うこととなった。すると、文侯は、楽羊の前に、大きな箱を一つ持ってきて、

「この中身を見てみよ」

と、

示之謗書一篋。

これに示すに謗書一篋(いっきょう)なり。

箱を開いて見せると、楽羊(のはたらきが悪いの)をそしる誹謗の書が一箱にいっぱい入っていたのである。

「なんと」

これを見て、楽羊は

再拝稽首曰此非臣之功也、主君之力也。

再拝し稽首して曰く、「これ臣の功にあらざるなり、主君の力なり」と。

二度拝礼し、あたまをこすりつけて、

「中山を征伐できましたのは、やつがれの功績などではございませぬ。あなたさま(がやつがれを信頼してくだされた、そ)の力量でございました。」

と申し上げたのでございます。

王さま、どうぞこのことをようく覚えておいてくださりませ」

果たして、甘茂が軍を率いて宜陽の町を攻め、囲むこと五ヶ月にして攻略できずにいると、武王から兵をまとめて帰ってくるように使いが来た。

事情を聴くと、樗里子らが王に韓との争いを止めるように進言したのであるという。

甘茂は王からの使者に一通の手紙を持たせた。

武王がその手紙を開くと、

息壌在彼。

息壌かれにあり。

息壌の町はあそこでございましたな。

とだけ書かれていた。

息壌の町で申し上げたことを思い出してください」

というのである。

王は覚って、大軍を徴発して甘茂の援軍として遣わしたので、甘茂はただちに六万の敵兵の首を上げ、宜陽の町を陥落させて、韓の襄王(前311〜前296)に和平を乞わしめたのであった。

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「史記」樗里子甘茂列伝(巻71)より。

たいへん勉強になりました。

故事成語(「曾母投杼」)の使い方について学ぶとともに、

@    他人の悪口の投書があったら箱に入れて大切に保管しておかねばならない。

A    むかしは羊が将軍に任命されることもあった。

B    王さまは忘れる。

などの教訓が得られましたなあ。

 

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