平成22年7月27日(火) 目次へ 前回に戻る
凉しい高山にでも行きたいものですなあ。
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聖燈。名山之大者往往皆有之。
聖燈。名山の大なるものには往往みなこれ有り。
神聖なる名山の、中でもでかい山には「聖燈」という現象がたいていあるものである。
これは、誰もいない山の嶺などに灯がともる(ように見える)現象である。船の帆柱に火の玉が浮ぶ「セントエルモの火」といわれる発光現象と同種の事態であろうと思われますが、
世人多帰之仏氏之神。
世人、多くこれを仏氏の神に帰す。
世間では、これは多く仏教系の聖霊の力である、といわれる。
しかし、わたくし(←原著者)思いますに、「聖燈」の出現は、
蓋山之精英之気発為光怪耳。
けだし山の精英の気の発して光怪を為すのみ。
つまるところ、山中の本質のエネルギーともいうべき力が発現して、光の不思議を起こすだけではないでしょうか。
では、「山之精英之気」とは何かとさらに考えますと、
山発白銀亦有光。人跡其光而求之、多見鉱脈。
山、白銀を発するもまた光あり。人、その光を跡(ふ)みてこれを求むるに、多く鉱脈を見る。
白銀のある山もやはり光を発することが確認されています。ひとが山の光を追ってその光源に至ると、往々にして(銀の)鉱脈を見つけることになる。
ということですから、この経験的事実にかんがみて、山中の貴金属・宝石の類こそ、その山の精英なのではないだろうか。
いにしえより、大きな真珠の光は、暗闇の中で一台の馬車を明らかに照らし出すことができる、といいます。
況名山為宝蔵興焉之所、豈独無光怪焉。
いわんや名山は宝蔵興焉の所たり、あにひとり光怪無からんや。
それに対して名高い山というのは、宝石が貯えられ、あるいは創生されるところです。そんなところが、どうして光の不思議も無しにいられましょうか。
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山は、発光して当たり前だということである。と、元・葉子奇の「草木子」巻四下に書いてありました。なお、葉子奇は、「聖燈」の観測される山の一覧を付けておいてくれているので、便利です。
○聖燈の観測される山
眉県・蛾眉山(四川)
成都・聖燈山(四川)
簡州・天光観(四川)
衡山・聖燈巌(湖南)
匡廬・神燈巌(江西)
明州・天童山(福建?)
高麗・太白山(朝鮮) その他
・・・この記述から600年以上経っていますので、その間の科学技術の進歩に鑑みれば、聖燈の観測される山の一覧はもっと増えていることだろうと思います。