平成22年4月7日(水)  目次へ  前回に戻る

周(※)の天授年間(690〜692)に、とある法令が発せられた。

※周という国号は古代の姫氏の国(姫周)、南北朝時代の宇文氏の国(北周)、五代の郭氏・柴氏の国(後周)にも使われますが、ここでは武則天(則天武后)が唐の国祚を奪って建てた国(武周。690〜704)のことです。

その法令の内容は、

禁民間婦人不得施粉黛。

民間の婦人に禁じて粉黛(ふんたい)を施すを得ざらしむ。

民間の女性が「粉」と「黛」を使うことを禁じたのである。

シナ史上でも屈指の政治的人間と評され、しかも「女性」の皇帝の考えることですから、わたくしごときシモジモのキタナきをとこにその法令の意図はわからないのでございます。しかしこの法令は当時のひとびとに、たいへんな衝撃を与えた。

これ以前、女性の化粧は、みな「粉」と「黛」を使っていたのである。

その化粧法は、

粉以傅面、黛以填額画眉。

粉は以て面に傅し、黛は以て額を填して眉を画く。

まず粉を顔の上に広げるようにつけ、額(の眉の薄くなっているところ)をまゆずみでうずめるようにして眉を画くのである。

「填」は「穴を塞ぐ」の意味。

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「粉」は「説文」に「顔に傅するものである」といい、「傅」(ふ)は「付」と同じい。

この「顔に傅する」ための「粉」として、いにしえは米粉を使ったといい、これに赤い染料を混ぜて紅粉も使ったそうであるが、後世になって

焼鉛為粉。

鉛を焼きて粉と為す。

鉛を火に入れて粉末にした。

ものを使うようになったのであり(「韻会」による)、これを「胡粉」という。

「黛」は、「代」りに使う黒いもの、という意味で、眉毛を抜いて代わりにこれを以て描くからである、という(「釈名」の説)。楚辞・大招篇に「粉白黛黒」という言葉があり、黒い墨を使うものであった。

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武則天の禁令は、宮中の女性を除き、民間人にはこれを禁じるものであったのだ。女性専用車に男性の乗るのを禁じる、などというレベルの比ではなかったのである。

「困ったわね」「誤魔化しがきかないわね」「どうするのよ」「きいいい」

と女性たちはパニックに陥ったのですが、しばらくすると、彼女らは

皆黄眉墨粧。

みな黄眉墨(こうびぼく)粧をす。

みな、黄色い眉描き用の墨を使って化粧をはじめた。

後、「粉」「黛」の禁令が解かれた後も、唐の後半の間は「粉黛」とこの化粧法の組み合わせが行われたそうである。

人民というものは、お上が何かを禁じたら、新しい何かを工夫するものなのだ。

ちなみに、「黄眉墨」の化粧法は今(明の時代)となってはよくわからないが、唐代には「貼花黄」(花のような黄色い眉を貼り付ける)という言い方があるので、(眉を)「引く」ように画くのではなく「点画」すなわち丸く塗布するのではないか、と思われる。

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と、明・于慎行「穀山筆麈」巻十五に書いてある。いろいろ規制してもうまいこといかないみたいですよ。

 

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