今日は海が見たくなって海辺に行きました。
冬は空が澄んで雲が少ない。
蒼々と深い青空が広がり、雲は向こう岸の房総の山なみに近いところを掠めているばかりだ。
春雲宜山、夏雲宜樹、秋雲宜水、冬雲宜野。
春雲は山に宜(よろ)しく、夏雲は樹に宜しく、秋雲は水に宜しく、冬雲は野に宜し。
春の雲は山にかかっているのにふさわしく、
夏の雲は木々の向こうにあるのにふさわしく、
秋の雲は水に映っているのにふさわしく、
冬の雲は原野のかなたにあるのにふさわしい。
といわれるのもムベなるかな。
そして、いずれの季節においても、雲なるものは、
着眼総是浮遊、観化頗領幻趣。
着眼すべてこれ浮遊、観化すこぶる幻趣を領す。
ちょっと見にはまず、すべてふらふらと流れゆくものの象徴、
じっと見ているとやがて、夢幻のように変化していくものの似姿。
というのである。
ところで、わたくし、長い間、
―――ああ、もったいない。わしのモノはすべてわしのモノだ。他のひとには絶対に与えるものか。
と思っておりましたのですが、白い雲を見ていたらもうなんだかどうでもよくなってきた。
鄙吝一銷、白雲亦可贈客。
鄙吝一たび銷(と)くれば、白雲もまた客に贈るべし。
けちくさい気持ちが溶けていくと、白い雲もまた惜しまずにひとさまに贈ることができよう。
むかし、梁の時代、山中に暮らす隠者・陶弘景は、皇帝から
「山中にはどんないいものがあって、おまえは都に出てこようとしないのじゃ」
と問われて、
山中何所有。 山中には何の有るところぞ。
嶺上多白雲、 嶺上に白雲多きも、
只可自怡悦、 ただ自ら怡悦すべく、
不堪持贈君。 持して君に贈るに堪えず。
あなたは訊く、山の中には何があるのかと。
峰の上に限り無く湧き、過ぎて行く白雲がある。
けれどそれはわたしだけのよろこび、
あなたに差し上げてもあなたは戸惑うだけだろう。
白雲に象徴される山中の歓びは、世俗の富貴とは無縁のことであることを言うた詩である。→関連
それがさらにひっくり返る。価値から自由になると白雲もたいへん貴重なものとなり、さらにはその貴重なものさえ他人様に差し上げてもいいや、という心になってくるのです。
それから船に乗って帰路に着いた。
夜半、雲が過ぎて行ったあとの星空を観ていたら、自分の中の汚いものがどんどん溶けて無くなってまいりました。
渣滓尽化、明月自来照人。
渣滓(さし)ことごとく化し、明月は自ずから来たりて人を照らす。
わしの中のごみ・かすはことごとく融解し、空っぽの心の中のわしのところへ、明月は自分からやってきてしらじらと照らす。
キレイな心になったのです。
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明・小窗先生・呉従先「小窗自紀」第28則及び第7則より。
今日は海芝浦やヨコハマで海を見た。雲も見た。落日や富士山を見た。おかげさまでせっかくキレイになった・・・かと思ったのに、明日からまた「おもて」の仕事である。そのことを思ったら、またどろどろしたものが心を覆いはじめたのだった。
←首都圏三大秘境駅の一とされる海芝浦駅に到着す。
←海芝浦駅からハマの海を見たのさ。
←これは大桟橋から観たる富士山。