今から六十年ほど前・・・(といいましても、2010年からではなく、康煕五十四年(1715)から起算してください。清の順治帝が;北京に入ったのが西暦でいうと1644年ですから、その少し後ぐらい、になります)。
清王朝が睿親王ドルゴンらの指導のもとで明末の混乱を治め、ようやく天下が落ち着きはじめたころのことである。
漢人八旗に属する劉某という太守が江南の江寧に赴任してきた。
太守が陸に上がって官舎の下見をしている間に、船上に残っていた太守の妻のもとに、年のころ三十ばかり、細面の美人で物腰柔らかだが、眼光熒々たる不思議な女が訪ねてきた。
劉夫人は女の差し入れた名刺を一覧すると、自ら立ち上がってこの女を船に迎え入れた。
女は張介瑶という。
明末に江寧一帯では知られた妓女であった。
あいや! 待たれよ。
妓女、というと、富貴のオトコたちに音曲などを供し、あるいはその春を鬻ぐ行為のみをイメージして、社会的には無きに等しいアワレな女性をお考えになったかも知れませぬ。しかし、それはあまりにも一面的・ナイーブな感想でございます。
妓女たちはその地の有力者たちの人と為りを心身ともに、それこそ裏表あまさず知り、彼らの家庭・産業の実情を聞き及び、さらには彼らの間の複雑な人間関係について濃やかな情報を持ち、意図すればそれらを活用することのできるインテリジェンス(情報屋)でもあるのです。
したがって、外部から赴任してくる新しい権力者にとって彼女たちとの連携は必須の課題であり、江寧における張介瑶という女性の重要性も新しい太守らには認識されていた。
そして、張介瑶は現在では落籍されて、ある男の妻に納まっていたから、彼女との接触は劉夫人が行うのが適切なのである。夫人が介瑶の刺を見て即座に船内に招き入れたのはそういう事情であった。
このとき、張介瑶は劉夫人に高価な輸入物の扇を献上し、また、夫人の傍らにいた幼い男孫を見て
「これはかわいらしい御子ぢゃ。あなたにはこれを差し上げませう」
と涼しげな声で言うて、甘い餡を練りこんだ餅を一つ二つ呉れた。
その指の柔らかいこと。
その幼い子は、餡の甘さよりその指の柔らかさを、その後何十年も忘れられないであろう・・・。
この日はお互い顔見せの挨拶だけであったから、介瑶は早目に引き上げたが、その前に、岸に舟引きの人夫たちが待機しているのを見て、
「おくさま、あたくし、一曲だけ歌わせていただいてよろしいかしら?」
と細い首をかしげ、夫人に
「まあ、名高い張女仙の歌を聞かせてもらえるなんて、あたしたち、どうしてこんなに運がいいんでしょう」
と言わしめてから、歌い出した。
その声は案外低く(あるいはこれは彼女が落籍されて習練を怠っていたせいだったのかも知れぬ)、それでもまだ艶を失ってはいなかった。その紅いくちびるの動きをじっと見つめていた幼子は、その歌声も永く忘れることはできなかっただろう。
舟中人被利名牽、 舟中のひと、利名に牽かれ、
岸上人牽名利舟。 岸上のひと、名利の舟を牽く。
江水悠悠渾不断、 江水は悠々としてすべて断たず、
問君辛苦到何年。 君に問う、辛苦何れの年に到るや、と。
舟の中にいるあたしは、(太守さまの奥様と知合いになるという)利益と名誉に引かれてやってきましたの。
岸の上にいるあのひとたちは、名誉と利益(をお持ちのおくさまたち)を乗せた船を引くために待機しておられますのね。
流れゆく長江の水は、はるかにやってきて途絶えることがない。
岸の上のひとびとよ、あなたたちのご苦労は、(そしてあたしの苦しみは)いつの日終わることでしょうか。
歌い終えて、劉夫人の顔を見てにんまりと笑うたものである。
つらつら考えてみると、優雅な教養を持つ女性らしい歌とはまるで思えぬが、なにより「ここに利益と名誉を求めてやってきた」と堂々と歌うとは、人を食ったものである。
この張介瑶も大した食わせもので、劉太守が江寧を治める間、その情報収集と根回しの能力にはずいぶんと助けられたものであるが、彼女自身もかなりの蓄財をしていたらしい。そして、その彼女よりも彼女の旦那の方が一段と食わせものであるともっぱらの評判で、このひとも太守とはよく宴席をともにする仲となった。
介瑶女仙のだんなは葉某といい、明の末、どこかで知事にまでなった人物であった。
葉某は知事時代、その土地に住んでいた皇室に属する人物と利害が対立したことがあった。葉は遠慮も無くこのひとの罪を指摘して捕らえ、厳罰に処するべく上申した。皇室関係者を微罪で罰することは困難であり、上司から「不可」の連絡を受けると、おりから暑熱の候、葉某は顔色も変えずに、
使人曳於赤日中而曝之。
ひとをして赤日中に曳かしめ、これを曝(さら)す。
(釈放する前に)官吏に命じて、その皇室関係者を一日中街中を引き回させ、彼を直射日光の下に晒したままにさせた。
このためこのひとは今でいう熱射病になってしまい、家に帰ってすぐに亡くなってしまったというのである。
葉某は、そういう、剛直で、自分の気に食わない人間を徹底的に叩く男であった。ただし、明朝が傾くと旧王朝に忠義立てをするようなことは全く無く、さっさと江寧に帰って、ちょうど落籍先を探していた張介瑶と意気投合し、医者になって日銭を稼いでいたのである。
時のひとびとはこの葉某のために、その門前に一聯を落書してからかった。
一敗一成、郡守改為国手、 一敗一成、郡守改まって国手と為り、
九蒸九曬、天潢変作地黄。 九蒸九曬(さい)、天潢変じて地黄と作(な)る。
「曬」(サイ)は、「日に曝す」こと。「国手」は一国を救う名手、の意で「名医」のこと。「天潢」(てんこう)は天上の星座のひとつですが、ここでは皇室の方の比喩。「地黄」は漢方薬の薬種のひとつ。
あるときは(国が滅んで)落魄し、あるときは(知事になって)成功する。郡守(知事)さまから国を救うほどの名医になられたのですなあ。
九回蒸しあげ、九回日光にさらします。そうすると天上の星のようなお方でも地上で黄色くなってしまい、名医の扱う薬になってしまうのですなあ。
ところが、葉はこれが気に入ったらしく、自らの邸にこの聯を懸けて人に己れの才の多用なるを誇っていたそうである。
いつも薄笑いを浮かべているような男であったが、不思議と劉太守とは気が合って、劉が帰任後も付き合いがあった。そして、一度気に入ったものは裏切らない性格であったらしく、劉の死後もその子や孫に挨拶状を欠かさなかったし、そのときの書状によれば上述の対聯はそのときもまだ家に懸けていたらしい。また張介瑶とも子は無かったが添い遂げた。ただし、この最後のは、彼が裏切らなかったのではなくて、逃げ切れなかっただけかも知れぬ。
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「明の末、清の初め、という時代はこんなひとたちがほんとにあちこちで幅を利かせていたものじゃよ」
と在園老人・劉玉衡は懐かしそうに笑った。
「もちろん、劉太守はわしの祖父で、夫人はわしの祖母、わしはその夫婦の初孫だったから随分可愛がられて、江寧まで連れて行かれたのであった。張介瑶から餅をもらった幼い孫は、当然わしのことじゃ」
そう言いながら、康煕五十四年の劉在園老人は、自分の節くれだった指を懐かしそうにじっと見つめていた。
「在園雑志」巻三より。