漢の時代のことである。
○郅都蒼鷹
郅都(しつ・と)は河東・大陽のひとであった。
景帝(在位:前156〜前141)のときに取り立てられ、皇帝のご機嫌にもひるむことなく直諫(隠喩で諭すのではなく直接的に諫言すること)し、どんな権力を持つ大臣でも朝廷で面折(面前で批判すること)した。
これによって皇帝の信頼を得、長安の検察の事に当たる中尉の官に遷った。
このころはまだ人民は素朴で、罪を犯すような者は少なかったが、郅都は法を厳格に適用し、貴族や皇帝の縁戚でも容赦なく罰した。ために、
列侯宗室見都、皆側目而視。号曰蒼鷹。
列侯・宗室は都を見てみな目を側めて視る。号して曰く「蒼鷹」(そうよう)と。
爵位を持つ貴族たち、皇室の方々たち、かれらはみな郅都の姿を横目で見ながら、こそこそと「蒼い鷹めが・・・」と呼んだ。
「側目」する、というのは、怖れて正面から見ず、目を合わさないようにしてちらちら見た、ということです。「蒼鷹」は精悍で冷酷で技量高く、逃げ惑う獲物を捕らえることにサディスティックな喜びを感じるらしい若いタカに譬えたのである。
皇帝の信任篤く、長安の隣であり北方守備の最重要拠点でもある鴈門の太守となった。
北方の蛮族・匈奴はもとより郅都の厳格なのを知っていたから、彼が太守となるや国境線から大きく退いて、彼が太守のうちは鴈門に近づくことさえしなかった。
匈奴は騎馬しての弓射の戦法を得意とした。人形を作って漢の歩兵にかたどり、これを射る鍛錬を欠かさなかったが、あるとき、
為偶人象都。
偶人を為(つく)りて都に象る。
的の人形として、郅都に似せたものを作った。
しかしこのときは、
令騎馳射莫能中。
騎をして馳せて射せしむるに、よく中(あた)るなし。
騎兵に走りながら射させたのだが、(みなびびってしまい)命中させられた者はひとりもいなかった。
それほど郅都を畏れていたのである。
しかしながら、郅都が鴈門太守でなくなる日は意外と早くやってきた。
郅都は以前に帝の弟である臨海王の不法を批し、臨海王は自殺したのであった。郅都を怨んだ王の母・竇太后が景帝に迫り、景帝は郅都を捕らえ、死に処したからである。
○寗成乳虎
寗成(ねい・せい)は南陽の穣のひとである。景帝に郎謁者という官に取り立てられた。
向こう気が強く、部下としては必ず上司よりも優位に立とうとし、上官となれば部下を厳しく取り扱い、
如束湿薪。
湿薪(しっしん)を束ぬるが如し。
湿った薪木を束ねるときのように、隙間無くぴったりと束縛したのであった。
次いで中尉となって郅都のやり方をまねたが、幾分顕貴に阿るところがあり、その廉直では郅都に及ばぬと評された。
武帝(在位:前140〜前87)が位につくと、寗成は外戚の批判を受けて髪を切られ(←刑罰である)、失職した。
後、郡守に補せられようとしたが、時の宰相・公孫弘が下積みのころに寗成に仕えたことがあり、
其治如狼牧羊。
その治は狼の羊を牧すがごとし。
あのひとのやり方は、オオカミがヒツジを飼うようなものでございましたな。(郡守などにすれば部下や人民がどれほど苦しむことでしょうか)
と進言したので取りやめとなった。
その後、関都尉(函谷関の関所役人)となったが、一年余りもすると、関を通って長安の都に出入りする関東の役人たちはみな、
寧見乳虎、無値寗成之怒。
むしろ乳虎を見るも、寗成の怒りに値(あ)う無かれ。
「乳虎」というのは子を産んですぐのメス虎をいう。子を保護するため、その気性特に荒い。
子の生まれたばかりの荒れ虎に出会ってもよいが、寗成どのの怒りに会うのは避けねばならぬ。
と言い合うようになった。
その強暴であったこと、このようであったのである。
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「蒙求」より。このお二人の伝はいずれも漢書巻九十「酷吏列伝」に載せられている。(「蒙求」の方が要約されています。)
厳格に法を適用すると逆にヤラれることがあるみたいです。しかしながら権力者の非法を見逃してよいものでもありますまい。何しろこちらは漢と違ってレッキとした近代法治国家なので。