もう怒ったでわん!
晋書に曰く、
1.王戎
王戎、字は濬沖(しゅんちゅう)、瑯邪・臨沂のひとである。
幼いころから頴(かしこ)く悟っており、神秘的な風采でどこから見ても秀でた姿であり、眼光鋭いゆえ、
視日不眩。
日を視るも眩まず。
太陽を見ても、(眼光の方が鋭いので)目がくらむことがなかった。
友人の「楷は彼を評して、
戎眼爛爛如巌下電。
戎の眼、爛爛として巌下の電の如し。
戎のやつの目の玉は、らんらんと輝いて、まるで岸壁の前で稲妻が光っているように光っていやがるぜ。
と言うたのであった。
戎の父の王渾は阮籍と親しかったが、阮籍はまだ年十五の戎が父に随って官舎にいるときに会って以来、王渾のところを訪ねた際には必ず戎に面会し、ややしばらくしてから出てくるのが常であった。
そして、親父の渾に対し、
濬沖清賞、非卿倫也。
濬沖は清賞、卿の倫(ともがら)にあらざるなり。
濬沖くんは清々しく賞賛すべき人物だな。きみと同族だとは信じられんよ。
「きみと話すよりは阿戎(戎くん)と話す方がいいな」
と言うたということだ。
2.「楷
「楷、字は叔則、河東・聞喜のひとである。
賢明で知識や度量もあり、少年時代から王戎と並び称されていた。鍾会が文帝(←司馬昭のこと。魏の実権を掌握していたが、形式的には帝位には就いていない。子の武帝(司馬炎)が魏の禅譲を受けた後、文帝と追贈された)に推薦し、宰相府の属官となった。
重要な職務である吏部の郎官が欠員になったとき、文帝は鍾会に誰を後任すべきか問うたところ、鍾会の答えは、
「楷清通、王戎簡要、皆其選也。
「楷は清通にして、王戎は簡要なれば、みなその選なり。
「楷は余計なことはしませんが、よくわかっております。王戎は大まかに見えますが、要点は押えております。どちらもその仕事をよく勤めることができましょう。
というのであった。
文帝は結局、「楷を吏部郎に任命した。
「楷はその風采は神秘的で高邁、姿かたちや振る舞いは俊秀にして爽やか、博く群書を読み漁り、「理義」の学問(←六朝時代には老子・易の学問をいう)に精しく、ひとびとは「玉人」(玉のような男)と呼び、
――叔則に会えば、玉の山に近づいたかのようだ。彼の光でわしらも照らされる。
と言い合って愛した。
武帝が禅譲を受けて「晋」帝国の皇帝として即位(265)したとき、自分の後にどれだけの世代、晋王朝が続くかを占うべく、群臣を集めた場で「策」(竹べらに文字を書いた籤)を引いた。
ところが、である。
「策」には「千」や「万」の数字が書いてあったはずなのだが、擦れて消えてしまったのか、何かの手違いか、武帝が引いた「策」には、ただ
一
とだけ書かれていたのだ。
これでは晋王朝は武帝一代で終わりになってしまう。
武帝は言葉を失い、まわりに侍っていた群臣は蒼くなった。
そのとき、既に中書郎になっていた「楷が声を上げて、
臣聞、天得一以清、地得一以寧、王侯得一以為天下貞。
臣聞く、「天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、王侯は一を得て以て天下の貞を為す」と。
おお、これはめでたや。
それがしは聞いております。
青天は、かのただ一つしかないものを保持しているから清らかに澄んでいるのだ。
大地は、かのただ一つしかないものを保持しているから安らかに定まっているのだ。
王者は、かのただ一つしかないものを保持しているから天下の正義を行うことができるのだ。
と。今、帝は、その「一」を得られたのです。
と呼ばわった。
これは「老子」の中のことば、老子のいう「一」は絶対的な宇宙の主宰をいう哲学用語である。
哲学的な意味はどうでもいい。とりあえず不吉な予感は払拭されたのだ。武帝大いに喜んだということである。
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やっぱりいろいろ勉強して「老子」ぐらいはすらすらと出てくるようにしておかねば、厳しい世の中では生きていけない、という教訓ですなあ。まあ、太陽を見つめても目が眩まないのも重要なことかも知れませんが。
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