←こいつは「ある」のでしょうか。
こんな話はしたくは無かったのですが・・・。
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蘇州の鄭君輔は繋がれない馬のように自由気ままな性格(「不羈奔放」)の男であった。
その彼が、運河の運航管理をする漕府の下役人となって河北の直沽(天津北部)に出張した。(時は元の時代であったから、江南出身の漢人(いわゆる「南人」)は下役人(吏)にしかなれなかったのである。)
直沽はハーンの住まう大都に近く、ご存知のとおり、妓楼立ち並び東西の美女たちが誘う繁華の街である。
彼は公金を使い込んで(←当時の「南人」はいわばB級市民の扱いですからモラルハザードを起こしていたのです)娼婦遊びに夢中になり、
挑達太甚、殊弗堪之。
挑達はなはだしく、ことにこれに堪えず。
交接することはなはだ多数であったので、とうとう精が尽きてきたかに思えた。
「公金もたんまりあり、すばらしい娼妓たちがわんさかいる。こんなチャンスは滅多に無い。何とかもっと遊べないものかのう・・・」
そんなとき、ひとりの醜い老人が、怪しい塗り薬を売りにきた。
此助陽奇剤也。
これ、陽を助くるの奇剤なり。
これは男性の精力を助ける奇跡の薬でございますぞ。
「ひいっひっひっひっひっひ・・・」
老人はいやらしく笑いながら鄭を上目遣いに見た。
「ほほう。譲っていただくにはどれほどの謝礼を申し上げればよろしいかな・・・」
どうせ官金から払うのである。いくらでもよかった。
鄭はこれを購い、試しに塗ってみたところ、
「おお。こ、これは・・・」
たいへん元気になり、かつ快感も増すようであった。
――ところが、です。ああ、好事にははじめから魔が隠れているものだ。戒めなければならない。
数日後、陰器消縮、若閹宦然。
数日の後、陰器消え縮み、閹宦のごとく然り。
「閹宦」は宦官のこと。
数日後、男根が見えなくなるほどに縮んでしまい、(男性器を切除した)宦官のようになってしまった。
あれほど不羈奔放であった鄭はまるで腑抜けたようになってしまい、帰郷後も
竟以此終其身。
ついに此こを以てその身を終う。
とうとう元に戻ることなく、そのままでその身を終えたのであった。
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ああ、おそろしや。
我が「宇治拾遺物語」にも男根を女にとられてしまうおそろしいお話がありましたが、あれは最後には返してもらえる(しかしこの際複数の男が関係していたので他人のを間違えて取ってつけてしまう)のでしたと記憶しております。
ちなみに、(どこで聞いてきたのか知りませんが)鄭君輔の事件をわざわざ
漫書為後人戒。
漫書して後人の戒めと為す。
後の世のひとびとの戒めとするために書き付けておくのである。
と言いながら書いてくださったのは、陶宗儀、字・九成という、元の末に浙江・黄巌に生まれ、後に松江の南郊に住んだひと。明の初めごろまで生きていたらしい(この「大元の遺臣」の方々と同世代ですね)。住んでいたのが松江の南郊外だったので自号して南村先生といい、元末の社会・政治・文化などに関する実にさまざまなことを書きつけて、至正丙午年(1366)にまとめておいてくれた。その書名を「南村輟耕録」(上記の話は巻十一にあり)という。けだし「耕」作を「輟」(や)める、一時中断する、の意は、
作労之暇、毎以筆墨自随、時時輟耕、休于樹陰、抱膝而嘆、鼓腹而歌。
労を作すの暇、つねに筆墨を以て自らに随わせ、時々に耕を輟(や)めて樹陰に休らい、膝を抱えて嘆き、腹を鼓して歌う。
労働の合間がありますと、つねに筆と墨を自分で持っていて、時折に耕作を中断して木陰で休憩しながら、膝を抱えて「ああ」と声を上げ、腹をぽんぽこ叩いて歌を歌った。
そんなときに樹から摘んだ葉の裏に書きつけて貯めた記録であるからである、と序文を書いた友人の孫大雅が言っております。