初春の春の佳き日にうらうらと散歩しておりました。
・・・ところ、街の真ん中で酔っ払っているひとがいる。
普通なら放っておくところですが、そのひとがどうもチュウゴクの明代の士人らしい格好をしてぐでんぐでんになっているので気になりまして、
「これこれ、どうなされた?」
と揺り起こしてみて、
「ぶにゅにゅ〜ん」
と酔っ払いがこちらに顔を向けたその顔をよくよく見れば、祝枝山先生であった。
祝枝山、名は允明、正徳九年(1514)に年五十五で挙人となっているから十五世紀〜十六世紀の前半、だいたい王陽明と同時代に活躍した文人で、唐伯虎らとともに「呉中四君子」と称される。生まれつき手指が一本多かった(枝指)ので、自ら「枝山」と号したひとである。
そのひととなり、明史・文苑伝によれば「傲誕」(おごりたかぶり、でかいこと・在り得無いことを言う)の一語に尽きるという。
そのひとが
「ぶにゅにゅ〜ん」
と酔っ払っているので、一応介抱しないといけません。
「先生、しっかりしなされ」
先生は、にやにやし、気持ち良さそうに歌を歌い出した。
その歌の気持ち良さそうなこと類まれであったので、ここに記録しておきます。
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春日入芳壷、 春日 芳壷に入り、
吹出椒蘭香。 吹き出だす椒蘭香。
累酌無勧酬、 累(かさ)ねて酌むも勧酬無く、
頽然倚東床。 頽然(たいぜん)として東床に倚(よ)る。
春の太陽がにゅるにゅると芳しい香のする壷に入ってしまった。
やがてそこから、ぽぽぽん、と刺激的な甘い香りが噴き出してきましたぞ。(←これは酒壷だったのじゃ)
何杯も飲みます、誰かに勧められたり誰かに返杯することもなく、自分勝手にやらせてもらい、
酔ってしまって頽(くず)れるように部屋の東側のベッドに横になりました。
春の日が壷に入って酒が香る、という比喩は既に「あ○まのおかしなひと」の感じがします。ここまででもかなり気持ち良さそうな歌であることはわかっていただけると思いますが、さらに、
仙人満瑤京、 仙人は瑤京(ようけい)に満ち、
処処相迎将。 処処に相迎え将(ひ)く。
仙人が玉のみやこに満ち満ちて、
あちらこちらでわしを出迎えて「寄っていけ」と袖を引っ張る。
とまで言い出しました。
これはいかん。
「先生、ここでは世間の目もございますので、どうぞわしの庵まで来てくだされ」
と抱えて肝冷斎にご案内した。
先生はその間、
携手観大鴻、 手を携えて大鴻を観、
高揖辞虞唐。 高揖して虞唐を辞す。
仙人と手を携えて巨大なるおおとりを観に行くのだ。
高々と両手をあげて挨拶をして唐氏の虞帝の時代とお別れするのだ。
「・・・と思っているのにわしをどこに連れて行こうというのじゃ」
と暴れましたが、部屋に運び込んでゲンダイの水道水を一二杯飲ませますとようやく人心地ついたららしく、
「いやあ、一杯引っ掛けてから時空を旅行してきたので、どうやらかなり酒が回ったようじゃ」
と言うて
人生若無夢、 人生もし夢無くんば、
終世無鴻荒。 世を終わるまで鴻荒無からん。
この世に生きている間には「夢」を見るしかないのだ、もし「夢」を見なければ、
この世を終えてしまうまで渾沌としてどろどろの世界に遊ぶこと叶うまい。
と、一応オチをつけました。
「鴻荒」というのは世界の未開の時代をいい、野蛮、あるいは無意識下の混乱の状態を意味する語です。
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以上、祝枝山先生「春日酔臥して戯れに太白に效(なら)う」(春の日に酔っ払ってごろごろしながら、おふざけに李太白の真似をしてみた)の一篇である。
「先生、お気をつけいただかねば。ゲンダイに明代の格好でごろごろしていて警察にでも捕まったら、時空交流の秘密が国家権力の側にバレてしまうではありませんか」
とわしが正論を以て叱りましたので、わがままな先生は気分を害したらしく、
「ぶぶう。今日のところはもう帰る」
と言って帰ってしまいました。
ああ、一月二日も暮れてしまった・・・。