明の末ごろ、河南の某県に黄なにがしという男がいた。人に雇われて妻子を養っている普通の男なのだが、周囲の者は彼を尊崇して「黄大王」と呼んでいた。
なにゆえ周囲の者が彼を尊崇していたかというに、彼は
生為河神。
生じて河神たり。
生まれたときから、黄河の精であったのだ。
昼間、ときおり彼はまぶたを閉ざして、まるで眠っているように動かなくなることがある。目を覚ますと、まわりの者は、
「いかがでしたか」
と問う。すると彼は、
「どこそこの地で何艘」
と呟くように言う。
そこで、その場所に使いを立てて聞いてみると、確かにその時間、黄河のその場所で、いわれた数だけの舟が転覆しているのであった。
皆不爽。
みな爽(たが)わず。
彼の言葉がはずれることはなかった。
というのだから、疑うことができようか。
その彼が、明王朝を破滅に追いやった李自成の乱のとき、というのだから、崇禎の末年(1644)ころ、ひとと話していて、突然涙ぐみはじめた。
「どうなされたか」
と問われて、
賊将借吾水。奈何。
賊、まさに吾が水を借りんとす、如何。
逆賊めが、わしの水を使おうとするのだ、どうすればいいのか。
と言うのである。
しばらくして人の噂に聞こえてきたのは、李自成の反乱軍が開封の町を陥落させようとして、その周りに堤を築き、そこに黄河の水を引き入れて水攻めにしようとしている、ということであった。
黄大王は
「そうはさせぬつもりじゃ」
と人に語っており、実際、その後数ヶ月に渡って、開封は陥落しなかった。水がいっぱいになって城内に流れ込みそうになるたびに、堤がどこか決壊し、難を逃れていたからである。
やがて―――どこからか黄大王の噂を聞きつけたのであろうか、李自成の配下と称する無頼漢たちが某県にやってきて、住民の家族を人質にとって黄大王に面会を求めた。住民たちに懇願された黄大王は無頼漢たちと会談し、そこで開封の町の水攻めを成功させるよう協力を約束させられた・・・とか何とか言われているうちに、ついに開封の城壁が決壊し、城内は水浸しになって陥落したのであった―――という。
それが黄大王のしわざであったのかどうかはわからないのだが、黄大王自身は順治年間の終わりごろ(1660年ごろ)にはまだ生存していたのだそうであり、彼に直接会って聞いてみることができなかったのは残念なことである。
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と、崇禎七年(1634)に山東に生まれて、順治年間の終わりごろに北京に出てきた漁洋山人・王士が言っております(「池北偶談」巻二十五)。