むしの季節が来たぜ。(↓のお話とは何の関係もありません。)
陳庸、字は秉常(へいじょう)、広州・南海のひとである。
成化十年(1474)に挙人となるが、中央の試験を受けずに陳白沙のもとで従学した。
白沙、入門してきた秉常に言うに、
我否子亦否、我然子亦然。
我、否とすれば子もまた否とし、我、然りとすれば子もまた然りとす。
わしが「ダメだ」ということはお前さんもまた「ダメだ」としなされ。わしが「よろしい」ということはお前さんもまた「よろしい」としなされ。
秉常は「わかりました」と答えた。
数ヶ月経ってから、白沙は秉常を呼び出し、問うて言うに、
然否苟由我、於子何有焉。
然りと否と苟くも我に由れば、子において何か有らんや。
「よろしい」と「ダメだ」とはすべてわしの言うとおりにしたら、お前さんには何か得るところがあったかね。
秉常が答えられなくて黙っていると、白沙曰く、
「わしの考えたとおりにしていたとしても、お前には何も得るところが無いはずだ。同じように、たとえ聖人孔子が相手であったとしても、先人の判断をすべて鵜呑みしていたのでは、お前には何も得るところが無い。古典を読んでその解釈を学ぶのではなく、生成変化する目の前の出来事を自分で考えて判断すること、それが自得ということであり、それがわれらの儒学という学問である」
と。
いまひとつ自分自身の判断を信頼しきれない類のひとである秉常を矯めるための教えであったのだろう。
秉常、心に大いに感ずるところがあり、「自得」の二字がこれ以降の彼の生き方を支配したのであったという。
さて、参議にまで出世した張東所はもともと秉常の同郷(南海)の出身であり、彼の紹介で白沙の門人となったひとである。
あるとき、秉常、先生に問うて曰く、
「東所は如何でしょうか。見所がありましょうか」
先生答えて曰く、
余知庸。庸知詡。
余、庸を知る。庸、詡(く)を知れり。
わしは、陳庸よ、おまえの人柄をよく知っている。お前は東所・張詡の人柄をよく知っているのではないか。(お前の評価は、そのままわしの評価と同じじゃ)
つまり、お前の「自得」を自分は信頼する、と白沙は秉常を励ましたのだ。
その白沙も亡くなって十何年か経った。
秉常は生活のためもあって、年五十にして始めて州に職を得たが、
@任五日、不能屈曲、即解官。
任に@(のぞ)むこと五日、屈曲あたわず、即ち官を解く。
職にあったのはわずかに五日だけで、膝を屈し腰を曲げて上司に卑下することができす、すぐに官を辞してしまった。
のであった。
その後は
杜門不入城郭。
門を杜(とざ)して城郭に入らず。
郊外の自宅に引き込んでしまい、南海府の町に出てくることさえ無くなってしまった。
そして、中農として決して豊かでない生活を送ったのである。広州の学問を掌る督学の王宏というひとが、秉常の学識を伝え聞いて一度会見したいと申し込んだが、秉常は府城に出て官衙に参上するための礼服が無い、と言い、本当に会見が必要なら郊外の村までお見えいただけないかと言って寄越したので、王宏は激怒し、そのことは沙汰止みになってしまった。
このあたり、晩年の彼の面目、まことに躍如たるものがある。
八十六歳のとき、
病革設白沙像、焚香再拝而逝。
病革まりて白沙の像を設け、香を焚き再拝して逝けり。
危篤状態になり、家人の命じて何十年も前に亡くなった陳白沙の画像を寝室に飾らせた。そして、助けを得てその前にひざまずいて香を焚き、一度、二度と拝礼を行い、三度目に入る前に息絶えた。
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五日で辞めてしまうなら就職するな、という気もしました。「明儒学案」巻六より。