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平成21年 4月20日(月)  目次へ  昨日に戻る

4月13日の続き。

山道を昇っていくと、やがて次の関門が見えてまいりました。屋根も壁もみな黒く、今のような薄明るい中では見分けがつきますが、真っ暗闇なら何があるかわからないぐらい黒い建物であった。

関門の扉には一枚の鏡がはまっていて、わしのまるまるとしたからだを映し出していた。

「ふむ。鏡か。これは真実を映し出しているのだろうか・・・と思うぐらい、この一年で肥ったものよのう」

とわしはつぶやきながら、門扉に手をかけてみた。

扉は閉まっておりました。押してみても動かず、引いてみても動かない。

「困ったのう」

と途方に暮れていると、扉にはまっている鏡の下に何か書いてある。

読んでみます。

真師明鑑照遠、一見即識真仮。欺人実自欺、瞞人実自瞞。不但無益于事、而且反壊于事。

真師は明鑑にして遠きを照らし、一見して即ち真仮を知る。人を欺くは実に自ら欺くなり、人を瞞するは実に自ら瞞するなり。ただに事に無益なるのみならず、而して反って事において壊せしむるなり。

まことに師匠は明るい鏡のごときもの。遠くまで行くべき道を照らし出し、またひとたび見れば真実か虚妄かさえ見分けてしまう。

他人を騙すのは本当のところは自分を騙すことなのだぞ。他人を誤魔化すのは本当のところは自分を誤魔化すことなのだぞ。

騙したり、誤魔化したりすることは、事を成すに益が無いだけではない。かえって事を壊してしまうことになる。

「うーん。これは、「表を繕ってひとを騙そうしても、師匠は知っているぞ」という意味か・・・」

とつぶやきながら、黒い関門を見上げてみると、やっと目が慣れてきたのか、さっきまでは黒くて読まなかった題額がうっすらと読めた。

詭詐関

「詭」(キ)も「詐」(サ)も「いつわり」のこと。

「なるほど。これはなかなかの難関じゃな」

扉は動かそうとしても動かないので、関門の両脇の壁に抜け道が無いかと考えて調べてみたが、見つかりません。あっちへ行ってみたりこっちへ行ってみたりしてうろうろしていますと、

「ぶひゃひゃひゃ」

と突然関門の向こう側から笑い声が聞こえました。

「な、なにものじゃ?」

「おいらでちゅよ、肝冷斎」

その声は童子です。

「むう。・・・そうだ、おまえさん、そちら側にカギか何かがついていないかね。それを外せばこの扉が開くかも知れん」

「ぶー。はずれでちゅ。この扉にはカギなんかついていませんよ」

「なんと。うーん、どうすれば・・・」

「肝冷斎よ、聞きなちゃれ」

童子が説教を始めました。

「まことなき者が、タオを学ぶふりをして学びの場にやってきたといたちまちょう。(おお、世間には何とそういう学者が多いことでちょうか!)

その者、

・己れのほんとうの姿、ほんとうの命のことを「大したことではない」と考え、

・タオを学ぶということさえ、「大したことではない」と考え、

・まことの師匠に遇うことができれば、一言ですべてがわかる答えを求め、

・ともに学ぶ者に対しては自分の方がえらいと偉ぶるばかり。

これを「詭詐」というのでちゅ。

「詭詐」の心を以てタオを学ぶならば、

あるいはいい加減なことを言い、いつわりの言葉を出だし、ひとを侮り、

あるいは心を偽って表面を飾り、

あるいは言葉巧みに顔つきうるわしく相手に取り入り、

あるいは東を指して西だと言いくるめ相手をうまく誘い、

あるいは自分は横になり斜めに寄りかかって楽をしながら人には難問を吹っかけ、

あるいはたった一回挨拶をしたった一回食事をともにしただけで、大切なことを教えてもらおうとし、

あるいは尊敬すべきひとと対等に座って対等に会話しながら、その知識を伝え得ようとし、

あるいは少しくしごかれただけで怨みを抱き、ちょっとした苦労をいやがって人に押し付け、

あるいは経典を斜め読みして大体のことを理解しただけで次の段階に進むことを求め、

あるいは師匠の言葉を聞いて、それを味わおうとせずに表面の語義だけを理解し、

あるいは外面ではタオを学んでいるものの、実はまったく別のことで利益を得ようと考え、

あるいはタオを修めるための努力をしているように見せかけて、見えないところで俗世のことに手を染める。

そんなことになって自分自身をダメにしてちまうのでちゅよ!」

童子はここで溜息をついたようである。

如此弊病、不一而足。如何感的真師指点、良友扶持。

かくの如きの弊病、一にして足らず。如何にしてか真師の指点、良友の扶持を感じんや。

「このような弊害・欠点が、いくつも出てくるのでちゅ。そうなってしまっては、どうやって、真の師匠の指導や良き学友の助けを心に感じ取って進歩することができるというのでちょうか。」

「む、む、む・・・」

わしは自分の中に詭詐の心が少しは、というかかなりあるような気がして、反論ができなかった。

「ど、童子さま、わ、わしはどうすれば・・・」

「ようく反省ちまちたか、肝冷斎」

「は、はい」

「ならばいまだ救いはありまちゅ。行きまちゅよー」

じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・

童子は自分でドラを鳴らして自分で語り始めた。

吾勧真心学道者、速将詭詐関口打通、換出个至誠心腸、従実落処進歩。

吾は勧む、真心の学道者よ、速やかに詭詐関口を打通し、この至誠の心腸に換出して実に従い落処に歩を進めよ。

おいらは真心からタオを学ぶ者たちにお勧めいたちまちゅ。速やかにこの詭詐関を通り抜けなちゃい。心やはらわたをすべて誠実なものに入れ替え、虚構を排して真実に従い歩を進めれば通り抜けられるはずでちゅ。

不可存絲毫詭詐之心、欺人欺己、誤了前程。

絲毫も詭詐の心を存して人を欺き己れを欺き、前程を誤り了するべからず。

ほんの少しもいつわりの心を残して、他人をいつわり自分をいつわり、将来のことを誤ってしまってはなりまちぇん。

「さあ、肝冷斎、詭詐関を通り抜けなちゃい!」

そういわれても、やはり扉は押しても引いても動きません。

「と、通れないよう・・・」

わしが泣き言を言いますと、

「ああ、やはり肝冷斎はここまででちたか・・・」

と童子のわしを見放したような声が・・・。

「うわーん、そう言わずに助けてくだちゃいよー!」

と懇願すると、そのとき、関門の題額の上から、

「肝冷斎よ、その心、それが誠というものじゃ、忘れるでないぞ!」

と声がかかった。

師匠だ。悟元道士さまが、そこにおられたのだ。

悟元道士は言葉を次いで言う、

蓋誠之一字、能以通天地、動鬼神、感人物。豈有師友而不能感動者乎。既能感動師友、則大道可冀。

けだし誠の一字はよく天地に通じ、鬼神を動かし、人物を感ぜしむ。あに師友にして感動せしむるあたわざるものあらんや。既によく師友を感動せしむればすなわち大道冀うべきなり。

つまるところ、「誠」の一事は、よく天地にも心を通じさせ、精霊をも動かすことができ、ニンゲンやドウブツをも感じさせることができるものなのだ。どうして師匠や学友を感動させられないことがあろうか。そして、よく師匠や学友を感動させられるのなら、あとは難しくない。やがては大いなるタオを得ることができるであろう。

否則、稍有虚仮詭詐之念、則心不誠。心不誠、方寸中亦生大病。不但不能求真、而且反昧其真、妄想明道難矣。

否ならば、やや虚仮詭詐の念ありて、すなわち心誠ならず。心誠ならざれば、方寸中にまた大病を生ず。真を求めるあたわざるのみならず、まさに反ってその真を昧し、妄想して道を明かにすること難いかな。

そうでないならば、それはわずかとはいえ虚妄や嘘いつわりが残っている、ということであり、すなわち心が誠実でない、ということなのだ。心が誠実で無いならば、おまえの心の一寸ばかりの四角い空間(心臓)に、大きな病が発生するであろう。真実を求めることができなくなるだけでなく、反って真実を暗ましてしまい、妄りに思うばかりでタオを明かにすることは困難となるであろう。

「どうじゃ、わかったか、肝冷斎!」

わしは、「あ」と声を発しそうになった。

わしの方寸の「心」の中に潜んでいる虚仮・詭詐を残さないようにしなければならない。そのためには、わし自身の内面――「心腸」を鏡に照らし出せばよかったのだ。外面では無かったのだ。

「そうか、ここでしたか!」

わしは、扉にはめこまれている鏡に向かって飛び込んだ。

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鏡は・・・割れもしなかった。

もともとそこには何も無く、わしが自分自身を映し出していただけだったのだ。

わしは、どすん、と関門のこちら側に落ちた。

何とか詭詐関を通り抜けたようである。

尻餅をつきながら回りを見回してみると、今通り抜けてきた詭詐関は、裏から観ると何のこともない「はりぼて」の関門であった。道士も童子も、既に次の関門に行ってしまったのか、影も形も無い。はるか遠くでドラの音らしきものが聞こえるだけだ。

「なかなか、これはわしには苦手な関門だったみたいじゃなあ」

とわしは腰をさすりながら、立ち上がって次の関門に向かったのだった。

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なんとか通り抜けました。清・悟元道士・劉一明「通関文」より。

 

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