表の仕事のこと。月・火とトラに舐められながらも何とか無事だった、ような感じ。そろそろがぶりとヤラれるか。

 

平成21年 4月14日(火)  目次へ  昨日に戻る

週末まであと三日もある・・・

とはいえ、火曜日は毎週、「明儒学案」を淡々と紹介するだけなので、ネタを探して来なくていい。ネタを探しもせずに「これを読めばいい」という状況は「漢文読み機械」みたいなもので、魂無しでもやっていけるので楽チンです。

「わしは機械だ、機械なのだ。いや、そこまでも行かぬ、「からくり」レベルなのだ」

と思えば何だか幸せな気持ちになってくる。ニンゲンとしての誇りも無く、ただ淡々と漢文を紹介するだけの「からくり」。はは。・・・と、ここで、みなさんもわしのことをそう思っておられるんだろうね、ということに気づき、自嘲は僅かに悲哀の色を帯びた・・・が、所詮「からくり」の言うことじゃ、後漢書、いやご寛恕あられたい。

さて、先週(4月7日)は、陳茂烈、字・時周陳白沙と出会った、というところまで行きました。

白沙は既に晩年に至っていたが、時周に語るに

為学主静。

学を為すは静を主とす。

儒学の学問というのは、動いているより静かにしている状態を中心にすべきものだ。

ということを言うた。

時周はこの語について深くおもうところあり、張東所1月27日)などと激しく議論しあっていたという。

やがて、時周は、その業務態度が認められ、都・北京に呼び戻されることになった。「御栄転」である。

ところが、彼は官を為すこと清廉であった。なので貧乏であった。広東は温暖の地であるため防寒具が無くても生きていけたのであるが、

過淮、寒無絮幕、受凍幾殆。

淮を過ぐるに、寒に絮幕無く、凍を受けてほとんど殆うし。

淮水を過ぎて華北に入るころから(ちょうど冬の季節で寒くなってきたのに)、荷物の中に綿入れやカーテンも持っておらず、凍えてほとんど死んでしまいそうになった。

そうである。

都では官吏を取り締まる監察御史の職に就いたが、やはり穴の開いた上着で本人は田舎めいた容貌、一頭の雌馬に壊れた鞍を置いて各方面を見回ったが、

風紀之重、所過無不目而畏之。

風紀の重きこと、過ぎるところ目してこれを畏れざる無し。

士風を紀律することを重んじて強く指導したので、彼が見回った地域で、彼を見て畏れないところは無かった。

という。

・・・という官僚生活を送っていたのですが、母親が老いたので郷里の福建に帰郷することを申し出、帰ってしまった。

特に貯えというものを持っていないひとであったので、帰郷して給料が入らなくなると、母親の生活に用いるもののほかは、

匡牀敝席、不弁一帷、身自操作、治畦汲水。

牀を匡(ただ)し敝席にして一帷を弁ぜず、身自ら操作し、畦を治め水を汲む。

修繕したベッドに破れた布団を敷いて、一枚のカーテンも無く、あろうことか自分自ら農作業をし、あぜ道を整え、水田に水を汲み入れていた。

チュウゴクの知識人は自ら労働することをたいへん「賎しい」ことと考えていたので、これは同じ知識人の目から見て、たいへんアワレなことである、と考えられました。

「賢人が○○さんの治める地域でそのように苦労している」

と言われるのはチュウゴクの為政者にとっては大変な失態です。

そこで、福建太守の某は二人の作業員(「二力」)を遣わして、陳時周の作業を手伝わせた。

閲三日往白守、曰、是使野人添事而溢口食也。

三日を閲(けみ)するに往きて守に白(い)いて、曰く、「これ野人をして事を添え、口に食を溢れしむるなり」と。

三日経ったところ、時周は太守のところにやってきて言うに、

「二人を遣わして下さったのは(ありがたいが)、野に住むわしに二人を使用するという面倒なことをやらせ、わしの口に食べ物を満たすだけにしかなりませぬ」

と言うて、この二人を突っ返した、ということである。

母親は八十六まで生きた。

母卒亦卒。年五十八。

母卒して亦卒す。年五十八。

母が亡くなったあと、彼も亡くなった。年は五十八であった。

以上が陳時周の伝である。

若いころから、陳白沙は、時周のことを、

真百錬金孝子也。

真に百錬の金孝子なり。

ほんとうに百回も焼きなおされて純度を増した黄金のような孝行息子じゃ。

と言うて称賛していたとおりであった。

また、時周がまだ進士にならないころ、福建の林俊というひと、あるひとから「福建の人物で見込みのある者はおりますかな」と問われ、

「一書生に過ぎませぬが、陳時周という男がおります。

与時周語、沈疴頓去。

時周と語るに、沈疴(ちんあ)頓(とみ)に去る。

時周と話していると、慢性化してしまった病が急に治ったようにさえ感じますよ」

と答えたということである。

「疴」(ア)は「病」に同じ。「沈疴」はもちろん、ほんとうに大切なことを忘れて富貴や名望や快楽を求めて駆け回るわれらの「病い」を言っているわけである。

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「明儒学案」巻六より。

ああ、仕事したくないなあ。

 

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