梅の花。しかし何を見てもやる気にはならず、出るは涙。
なんとか帰宅してまいりました。今日は何とかバクハツしなかった。
さて、では、今日は久しぶりで清・悟元道士・劉一明「通関文」のお話をしておきましょう。
・・・才智関を通り抜けて山道を急ぐわたしの前に、また新しい関門が現われた。取り立てて目立つ関門ではないが、題額に
任性関(性格に任せてしまう関門)
とあった。
お。
珍しく関門の前には劉道士が払子を手にして待っておられました。先生の隣には童子もにやにやしながら立っている。
わしは両手を胸の前で組んで、頭を深々と下げてご挨拶申し上げた。
道士、言う。
「肝冷斎よ、おまえは前回の「才智関」は楽々と通り抜けたのであるが、その前の「懶堕関」を通り抜けるには大変苦労した。何故か考えたか」
「は。・・・何故といいますと、前回はただの関門でしたが、前々回は狭かったので、でぶのわたしには困難だったのでございます・・・」
とお答えすると、道士、
「うーむ。半ばは当っているといえよう」
とうなずきはしたものの、払子を一回、しゅ、と振って、説教が始まったのであった。
「肝冷斎よ、聖人はその性質、
円明、純白無疵。
円にして明か、純白にして疵無し。
円満で明朗、まっさらでキズが無い。
しかし、それ以下のニンゲンは、
各有偏病在身。
おのおの偏病の身に在る有り。
みな、そのそれぞれに偏ったところがあるのじゃ。
肝冷斎よ、おまえが「才智関」は得意だが「懶堕関」は苦手だ、というのも、性格に偏りがあるからなのである。そして、性格の偏りそのものが
実為性命之大害。
実に性命の大害たり。
本当のいのちにとって、まことに大きな害をなす「関門」なのだ。
そのような性格の偏りは改めねばならん。それがこの「任性関」の意義である」
へー。わしの性格が偏っているのが害なのか。でも、まあいいじゃん・・・
と思いました。
と、途端に関門は「ぎ、ぎ、ぎ」と音を立てて扉を閉ざし始めた。
「あわわ」
わしが驚くと、
「うひゃひゃ」
道士が嬉しそうに笑った。
「肝冷斎よ、何か怪しからんことを考えたようじゃのう」
「うう、申し訳ございませぬ」
わしが謝ると、関門の扉は動くのを止めた。
「なに、性格の偏りを改めるといっても難しいことではない。
反愚為賢、反悪為善、反濁為清、反弱為強。
愚を反して賢と為し、悪を反して善と為し、濁を反して清と為し、弱を反して強と為す。
オロカをやめて賢くなり、ワルをやめて善人となり、濁った心をやめて清々しい心となり、弱弱しい心をやめて強い気持ちを持つ。
だけでよいのであって、その逆までやれ、というわけではないからな」
うひゃあ。
それは難しいことでござる。
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というところで今日はもう寝ます。いろいろ眠い、というか現実逃避したいのです。