春分の太陽は西の方に沈む。九州行きたい。
現在、
その3
沢州の僧侶・洪密は、諸所で寄付を集めて歩いていた。
寄付を求められたひとが
「何のためですかな」
と問うと、洪密は、
「舎利塔(仏骨を納める塔)を建立するためですのじゃ」
と答えるのであった。
「ふむ。しかし・・・」
さらに
「舎利(仏骨)は遠い西域からしか手に入らぬものと聞きますぞ。舎利塔に納める仏骨は何処から得ようと考えておられるのか」
と問われると、洪密和尚は莞爾と笑って、
身出舎利。
身より舎利を出だす。
わしの体から仏骨が出ますのじゃ。
と答えた。
自分は仏の骨を体から出す超常能力者じゃ、というのである。
ちなみに「舎利」は丸い粒になっているといわれておりました。正露丸の白いのみたいな感じだと思う。
洪密はあちこちでこの話をしたので、舎利を身より出だす和尚として、当時は有名であった。
あるとき、洪密和尚は、山西の太原に寄付を集めに行き、土地の富豪の家に迎えられ説教をした。もちろん説教の後、たんまりとお布施をいただいて、宿舎に引き上げる。
富豪の妻女たちは洪密がいなくなると、
「和尚さんの体からは舎利が出るというぞよ」
とその座所を探してみた。
すると、
拾得百粒。
百粒を拾い得たり。
百粒の舎利を拾うことができた。
「ああ、ありがたや」
とみな涙を流したのでるが、翌日あるひとがそれを調べたところ、
皆枯魚之目也。
みな枯魚の目なり。
すべて干し魚の目の玉であった。
「にせものではないか」
ひとびとが追いかけてみると、そのときには洪密は既に宿舎を出、街の外で渡し舟に乗ったところであった。
やっと追いついたひとびとが渡し場から、
「和尚さま、どうしてそんなに急いで帰ろうとするのか」
と問いかけると、
「わしの体から出る舎利を受けるため、
山中要千数番麄氈、半日獲五百番。
山中にて千数番の麄氈(そ・せん)を要するに、半日にして五百番を獲たればなり。
山寺では千枚以上の粗い目の敷物が必要なのじゃ。それが、この半日で五百枚入手できましたので、この太原にはもう用はなくなりましたのじゃ」
と答えて、悠々と去って行った。
其惑人如此。
その人を惑わすことかくの如し。
彼がひとを惑わすのは、いつもこのようなものであった。
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五代・孫孟文、「北夢瑣言」(巻十九)による。宮中の権力と結びついていないので、18日・19日のその1・2のひとに比べ今日の洪密和尚が一番善良なひとに見えますね。
「肝冷斎よ、坊主憎けりゃとはいえども、わざわざお彼岸に三宝の一を誹謗するとは堕ちたものじゃな」
と良識派と名乗るみなさまの声がしてきたが、地球環境・女性・こどもの三位一体にさえ面従腹背のこのわしじゃよ。僧侶程度に筆鋒をおさめることがあろうか。(なお、肝冷斎は僧侶集団である「サンガ」を誹謗したのではなく個別の僧侶の非行を弾じたのであって、僧宝を誹謗しているのではないこと明かであるので念のため。なむなむ)
ところで、最近、薄田泣菫の「茶話」(ちゃばなし)を読んでいるです(岩波文庫の「抄」ではなく冨山房百科文庫の「完本」の方)。ご承知のとおり大正年間の「大阪毎日新聞」等に連載されたコラム記事で、反権力ジャーナリズムの好例のように習った記憶があるが、「完本」で読むと、これでもかこれでもか、という「差別、個人攻撃、捏造」の三位一体攻撃の連続ですね。こんなの読んでにやにやしてたというのだから「大正デモクラシイ」の程度も知れるというものだ。悲しくなってくるです。反権力ジャアナリストのキタナいところに蓋をしなければならないい「岩○」知識人が「抄」を必要とするのもムベなるかな。ただし、各コラムの最後数行は「アフォリズム」として佳いものもある。断章取義して利用せんのみ。
・・・日本人は地味で生一本で別に言分はないが、唯一つ辞世だけは贅沢すぎる。死際にはお喋舌(しゃべり)は要らぬ事だ。狼のやうに黙つて死にたい。(大正5.8.27)