↓ソウですか。

 

平成21年 3月18日(水)  目次へ  一昨日に戻る

昨日はたいへんでしたなあ。五十近くなって徹夜はつらいですね。神像(←ママ)がだいぶおかしな鼓動になっています。

昨日は「明儒学案」をさぼってしまったことになります。儒学をさぼってしまってすいません。そこで、今日は仏教の関係のお話をしましょう。「万年松」の話は、「万年松の話は?」と聴いてくれるようなキドクなひとが出てきたら、また致しましょう。誰からも「期待していたのに」という「お世辞」さえ聞かぬ寒さかな。)

その1

天成年間(ここでは926〜930)、幽州(ペキンあたり)出身の智明という僧、西域から経典を取って帰ってきた、と称して華北一帯に名を馳せた。

さてさて実は「天成」という年号はチュウゴクで三度使われたことがあるのだそうです。

@    555年。南朝の梁の年号。555年に即位した蕭淵明が使用・・・したのですが、淵明はすぐに廃されて建安公とされ、同年のうちに敬帝の紹泰元年に改元されました。ゆえにこの「天成」は「元年」しかありません。

A    757〜759年。この「天成」は三年までありますが、正史において言及されることはほとんどありません。何故となれば、これは安禄山の乱を起こしたオヤジの安禄山をぶっ殺した息子の安慶緒の使った年号だからです。

B    926〜930年。五代・後唐の明帝のときの年号です。五代の乱世の年号ですから、これもチュウゴクのごく一部で使われただけですが、後唐は、後梁の後を継いだ「五代」の二番目の王朝ということになっていますので、「正統」な王朝の年号として、普通の年表に使われています。よかったね。

閑話休題。

この僧・智明、西域から経典と合わせて

○一仏牙

○舎利十粒

を持って帰ってきたという。

「仏牙」は釈迦如来の「歯」、「舎利」は同如来の火葬後のお骨のかけら。

天台三仏論によれば、

・法身たる仏は理念的な存在であり、

・報身たる仏は別時空に常在するものですが、

・応身たる仏であるシャカ族のムニ・シッタールダだけは歴史上の人物として実在し、生老病死の四段階を経過されました。

このためこの世に肉身を遺された。ために、「ほとけ」の歯やお骨が存在していてもおかしくはない。

僧・智明は、(経典の方はどうしようとしているのか不明ですが)この仏牙を朝廷に献上したいと申し出た。

この申し出を聞いて、後唐の宮廷はたいへんな騒ぎとなり、ただちに臨時の税をかけて予算を確保し、仏牙の安置場所の建造や奉賛行事を執り行うことになった。

その騒ぎの中、僧・智明から献上されてきた「仏牙」は、

其牙、大如拳。

その牙、大なること拳の如し。

その歯は、普通のひとのコブシほどの大きさがあった。

さすがは仏さまの歯である。巨大であった。

褐潰皴裂。

褐して潰れ、皴し、裂けたり。

茶色く変色し、一部が潰れ、皴(しわ)が縒り、裂け目があった。

おお。これは時代モノです。おそらくこれは「本物」でしょう。疑う余地はない。

ところが、趙鳳という大臣が変なことを言い出した。(←もちろん、趙鳳はまともな人なので、「これは怪しからん」と考えたのです。)

曾聞、仏牙鎚鍛不壊。請試之。

かつて聞く、仏牙は槌鍛するも壊たれず、と。請う、これを試みん。

やつがれ、かつてこう聞いたことがござる。

「ほとけの歯は金剛(ダイヤモンド)の如く、何かで叩いても壊れることがない」

と。これを試してみとうござる。

どこでそんなことを聞いたのか。典拠を示せ、と言いたいところですが、言う前に、

随斧而碎。

斧に随いて碎かる。

「えい」とオノを振り下ろしてみたところ、それはぐしゃりと壊れてしまった。

ああ。

がっかり。

宮中ではその知らせを聞くと、

「にせものだったのか」

と落胆して、僧・智明と仏牙を迎えるための諸行事を中止した。

なお、国庫に蓄えられていたその準備金・黄金数千枚を、皇帝の側近たちで分けてしまったそうである。

智明もどこかに身をくらませてしまいましたとさ。

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五代・孫孟文「北夢瑣言」巻十九より。

まだその2その3があるのですが、徹夜明けであんまり遅くまでこんなことやっていると明日の朝また起きられなくなる。のでまた今度に・・・。

辞めないと殺される

 

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