↑わしらの本当の能力を知らんやつが多いのでのう。
唐の終わりに近いころ、厳遵美という宦官がおった。
左軍容使という職にあったが、
於閹宦中仁人也。
閹宦(えんかん)中の仁人なり。
宦官の中では珍しいほどの立派なひとであった。
職務は宮中の警護・警察に関するものであったが、皇帝の命を受けて忠義の臣を誅滅することがあり、隠退して山中に暮らそうとする気持ちが強くなった。
早く辞めたい。
・・・早く辞めたい。
ああ、本当に早く辞めたい。
早く辞めたいのじゃ〜!
と思いつめているうちに、
一旦発狂、手足舞踏。
一旦発狂し、手足舞踏す。
ある日、突然おかしくなって、手舞い、足踏み挙げて踊りはじめた。
「おお」
「どうしたことか」
周囲のひとはどうしていいかわからなかった。
さて、厳は以前からイヌとネコを飼っていた。その
猫謂犬曰、軍容改常也、顛発也。
猫、犬に謂いて曰く、軍容常を改むるなり、顛発するなり。
ネコがイヌに言うた。
「軍容使さま、普段と変わった様子じゃにゃあ、おかしくなったにゃあ」
これに答えて、
犬曰、莫管他、従他。
犬曰く、他(かれ)に管する莫れ、他に従え。
イヌが答えて言うた。
「ほっとけわん、やらせとけわん」
すると、厳は
俄而舞定、自驚自笑、且異猫犬之言。
俄ににして舞い定まり、自ら驚き自ら笑い、かつ猫犬の言を異とせり。
すぐに踊り終え、もとに戻って、自らの行動にびっくりするとともに自らの行動が可笑しくてしようがないかのように笑った。そして、ネコとイヌが話し合っていたことと、そのお蔭でもとに戻れたことを不思議なことと思ったのであった。
厳遵美はその後、昭宗が長安から亡命したときに隠退し、更に後に五代十国の一である四川の蜀(王氏)のもとに招かれて宮中顧問となって、
年過八十而終。
年八十を過ぎて終わる。
八十いくつまで生きて死んだ。
ちなみに昭宗に付きしたがった宦官たちは、後の梁の太祖・朱全忠によって昭宗とともに開封に連れて行かれ、まとめて大量虐殺されてしまったのであったから、厳の長生して終わりを全うしたのはその足るを知るの出処進退のゆえであったといえよう。
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五代〜宋の孫光憲(字・孟文)「北夢瑣言」巻十より。唐末・五代の殺伐たる同時代を描いて殺伐たる内容の同書にしては殺伐さの足らんお話だ、とお嘆きの読者諸兄姉もおられましょうゆえに、明日はもっと殺伐としたのをご紹介できるようにしたいと思います。