寒いです。
ああ、北風身を貫き、昼なお寒きにこの夜の寒いことよ。星きらきらと揺らめいて氷れるごとし。こんな夜に、家無くダンボール無き者たちはどうしていることであろうか。(・・・ここからは2月2日の続きです。)
わしは寒さに震えてじっとしていられず、山道を急ぎ登った。すると、星空の下に、また関門が見えてきました。
関門の題額を見上げると「冷熱関」とあり。門扉の左右には対聯があって、
求生而不生、未死先学死。
生を求めて生きず、いまだ死なずしてまず死を学べ。
真に生きるためには、生きようと思うな。
まだ死なない今のうちにこそ、死とはどういうことかを思いみよ。
とあり。
「これは唐の伝説の仙人・呂洞賓さまのお言葉であったはず・・・」
と、わしは閉じられた門扉の前で立ちすくんだ。
立ち止まりますと、一段と寒い。風を避けようと門柱の陰に入ったが、完全には風を防ぐことはできぬ。とにかくじっとしていると体の芯の芯まで冷えてくるので、門扉をどんどんと叩いて
「開けろー、きゃははは」
と呼ばわってみたり、足踏みをしたりして寒さをこらえてみるのですが、どんどん寒くなってくる。
・・・と、懐に何かあった。
――なんだろう?
と取り出してみると、どこかの喫茶店で随分以前にもらったマッチである。
――よし、このマッチでこの関門に火をつけてみよう。火がつけば暖まるし、関門が燃えれば向こう側に行けるのだから一石二鳥じゃ。
と考えつきまして、わしは震える手でマッチを摺った。
マッチ売りの少女ではないので幻を見ることもなく、火は強い風に吹かれてすぐ消えてしまいました。
「ち、今度こそきちんとつけてやる・・・」
と二本目のマッチを摺ろう、としたとき・・・
どーん、じゃん、じゃん、じゃーん・・・
と、ドラの音が頭上から聞こえてまいりました。
「ええい、とうとう火付けまでするようになったか、肝冷斎よ」
悟元道士・劉一明とお付の童子が二階にいて、わしの様子を見張っていたのです。
「おお、道士、お許しくだされ、あまりに寒くてこうするより仕方が無かったのでございます」
まずい。放火の現行犯を見られたのです。とにかく謝らねば。わしはその場に蹲って土下座しました。
道士のお叱りの言葉が頭上から降ってまいります。
「おおばかものめ。
修道者、先要看破幻化之身、置色身于度外。死且不懼、何況冷熱。
修道者は、まず幻化の身を看破して、色身を度外に置くを要す。死すら懼れず、何ぞいわんや冷熱をや。
タオを求める者は、まずまぼろしでしかない己れの身体の正体を見抜き、この物理的な身体を考えの外に置くべきもの。それによって死ぬことさえ恐れることを無くさねばならぬ。まして寒いの熱いのと言うことはならぬ。
おまえも承知であろう。
近年(清の時代のことらしい)、白石鎮の梁真人さまはたった一枚の破れた衣を身にまとい、顔を洗うこともなく、五十年もの間、一度も横になって休むことなく生きられた。西寧村の張睡仙さまはある日思い立たれて素っ裸になって泉の中に入り、水中に横になられて顔だけを出したまま、四十余年も、夏も冬もそのままで暮らしておられたのだ。
彼らが寒い熱いと苦しみを訴えたであろうか」
わしが黙っていると、
「答えてみよ、肝冷斎!」
と怒鳴られたので、
「う、うう・・・。ございませぬ・・・」
とお答えもうしあげるしかなかった。
「わかっているではないか、おまえも。頭の中では、な。
捨的色身、成的法身也。
捨てしは色身、成すは法身なり。
物理的な肉体を捨て、真理と一体となれ。
豈可因冷熱之小事、而誤性命之大事乎。
あに冷熱の小事によりて、性命の大事を誤つべけんや。
どうして、寒い熱いといった小さな問題で、ほんとうの命を得る得ないという大切な問題について誤った方向に進んでしまうことができようか。
心を強く持って、道を誤らないようにしなければならん。」
「ははー」
「まあ、確かに、いまだ成道していないうちに生身の体を壊してしまうのは愚の骨頂ではある。しかし、粗衣を以て体を護るに止どめ、寒い熱いを心にかけて贅沢するようなことがあってはならぬのだ。」
と話しているうちに、
くしゃん!
童子がくしゃみしました。そして、
「先生、だいぶ寒くなってきまちたね」
と言うのが聞こえた。
「うむ、そうじゃな。今日は短めの説教じゃが、そろそろ終わりにせんとこちらが風邪を引いてしまうのう」
道士が答える声が聞こえ、次いで、
じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・
と耳をも聾するドラの音。
道士の説教は佳境に入った。
吾勧真心学道者、速将冷熱関口打通、随時将就、到処安身。
吾は勧む、真心の学道者よ、すみやかに冷熱関口を打通して、随時に将就し、到処に安身せよ。
わしは真心よりタオを学ぶ者に告げる。すみやかにこの「冷熱関」を通り過ぎて行け。そして、(熱いときも寒いときも)あらゆるときに活動し、(熱い場所も寒い場所も)あらゆる場所に身を落ち着けよ。
冷可也、熱可也、不至凍死熱死便休、万不因冷熱而起無明。否則、有冷熱在心、心有所恐懼、則不得其正、有所憂患、則不得其正。心且不得其正、妄想明道難矣。
冷なるも可なり、熱なるも可なり。凍死・熱死してすなわち休するに至らざれば、すべて冷熱によりて無明を起こさざれ。否ならばすなわち、冷熱心に在る有りて、心に恐懼するところ有りてその正しきを得ず、憂患するところ有りてその正しきを得ず。心すらその正しきを得ざれば、妄想して道を顕かにするは難いかな。
寒いのもよし、熱いのもよし(という心境になるのじゃ)。凍え死にや熱さで死ぬ、というところまで至ってしまうならいざ知らず、そこまで行かないときは、寒い熱いによって心を動かされることがあってはならぬ。そうでないならば、寒い熱いが心に懸かり、寒くなったり熱くなったりしたくないという恐怖が生じて心が正しさを失うであろう。寒くなるのではないか熱くなるのではないかという心配が起こって、心が正しさを失うであろう。心が正しさを失えば、間違った想念に覆われてしまいタオを明らかにすることはできなくなるであろう。
道士のお言葉を平伏して聞き終えると、ややしばらくあって、
ぎぎぎ・・・
門扉が開きました。
その向こうからは光とぬくもりが射してきた。
顔を上げると、そこには赤々とかがり火が燃えておりましたのじゃ。わしは立ち上がり、門をぬけてかがり火の側にすわり身を温めた。体が暖まると不思議にいろんな光景を思い出した。
そういえばこの山道に入ってから太陽を見ていない。その太陽が、さんさんと輝いている春の日のこと。あるいは初夏の昼下がり。
かつて幼い日に暖まった故郷の家の掘り炬燵。
顔見知りのじじいに当たらせてもらった掃き集めた枯れ葉の焚き火。
親しい者と入った銭湯の湯気。
そして「ひとの情」など。
色んな暖かいもののことを思い出した。長い間離れているので、もうそれらの暖かいもののところには、戻ることが無いのではないかと恐れながら、どうやらわしは少し眠ったようだ・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
清・悟元道士・劉一明「通関文」より。
寒いです。帰り道、寒くて頭がんがんした。もし夏の暑い時期だったら別の訳になったかも知れません。