昨日は愚弟の家で姪の人と遊んでいたので更新さぼった。ラクした。今日は鴨川○―ワールド行った。疲れた。
と思いきや、もう明日は月曜日。涙出てくるです。
さて。
唐の東都、といえば洛陽のことですが、当時の都市は「坊城制」といいまして、城壁に囲まれた都市の中が、さらに門と壁で区画された「坊」に分けられていた。その洛陽城の坊の一つ「尊賢坊」に田氏という役人の家がありまして、その家の表門から入って中門を通り過ぎますと、
紫牡丹
が樹木のように繁っており、毎年、千の花房をつけて、評判であった。
そして、
花盛時、毎月夜有小人五六、長尺余、游于上。
花盛んなる時、毎月夜に小人五六、長尺余なるが有て、上に游べり。
花の盛んな時節には、月のきれいな晩になると、背丈一尺余りのコビトさんが現われて、月の下、花の上で踊り遊ぶのじゃ。
唐代の一尺は30センチ強である。
というので、その超常まことに不可思議なりと、都・長安にも聞こえるほどであったのだ。
ところが、
如此七八年、人将掩之、輙失所在。
かくの如きこと七八年、ひとまさにこれを掩わんとするに、すなわち所在を失えり。
そのような不思議が七〜八年も続いていたのであるが、邸宅のひとがコビトの出現を忌まわしがって、ボタンの花に蔽いをつけはじめたところ、それからは姿を見せることが無くなった。
間もなく紫牡丹も枯れてしまい、もう評判にもならなくなってしまった。
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唐・段成式「酉陽雑俎」続集巻二より。洛陽が牡丹の名所だったのは一昨年紹介したので、ここでは煩を避けて述べない。
あまりぱっとしないお話でしたが、また会社だと思うと心がぱっとしませんのでしようがない。