戦国の時代。
説客の孟軻に、弟子の淳于髠(じゅんう・こん)が尋ねましたのじゃ。
「先生、質問がございまする」
――なんじゃ。
男女授受不親、礼与。
男女授受するに親せざるは礼か。
男と女が物を受け渡すときには、直接手渡さない、というのがシキタリでしょうか。
孟先生、答えて曰く、
礼也。
礼なり。
――シキタリじゃ。
なぜですか。
――男と女は直接手を合わすべきではないのじゃ。そうすることによって乱れることがないように分別するのじゃ。
へー。そうなんですか。それでは、先生、
嫂溺則援之以手乎。
嫂溺るればこれを援くるに手を以てせんか。
兄嫁が水に溺れているときは、これを助けるには直接手をつながねばならないのではないですか。
それがシキタリ上だめだ、というのでしたら、溺れている兄嫁を助けることができないのではないか。どうなのですか。と問うたのである。
孟先生、ぎゃふん、と言うて謝るしかないのではないか。
と思いきや、答えて曰く、
嫂溺不援、是豺狼也。
嫂溺るるに援けざるは、これ豺狼(さい・ろう)なり。
――兄嫁が溺れているのに助けないようなやつは、豺とか狼の類じゃ。
「豺」は「やまいぬ」、「狼」は「おおかみ」。いずれも悪のドウブツです。危機にある兄嫁をシキタリだから、と言って助けようとしないやつは、ニンゲンとはいえない、と孟先生は言うのだ。
「し、しかし、先生はさきほど、男女は手を合わさないのがシキタリだ、とはっきりおっしゃったではないですかあ」
――くだらぬヘリクツを言うでない。
男女授受不親、礼也。嫂溺援之以手者、権也。
男女授受するに親せざるは礼なり。嫂溺るるにこれを援くるに手を以てするは、権なり。
――男と女が直接手を合わせない、というのはシキタリじゃ。兄嫁が溺れているのを助けるのに、直接手をつなぐのは、そのときにふさわしいハカリゴトことなのじゃ。
「権」は、
称錘也。称物軽重而往来以取中者也。
称錘(しょうすい)なり。物の軽重を称(ととの)えて往来し以て中を取るものなり。
さおばかりの平均をとるためのおもりである。さおの一方に皿をぶらさげてこれに物を載せ、中ほどを吊るしておもりを動かして吊り合いをとる、そのおもりだ。
と朱晦庵先生がおっしゃっておられる(「孟子集注」)のでイメージがつくと思いますが、吊り合いをとるために動かすオモリのことである。このオモリは、時と場合によって、はかりのもう一方の端に吊るされた人の命とか国家の興亡といった対象物の重さと吊り合いをとるように本来のシキタリから大きく外れることがあるかも知れない。
――シキタリを墨守するのでなく、時と場合に応じて、ひととしてふさわしいことをせねばならない。
と孟先生は言うのである。
「なるほど。いや、さすがですねえ」
と淳于髠は納得した。
・・・さて、ここで、二人のテンションは突然上がったのです。
淳于髠言う、
さて、先生。
今天下溺矣。夫子之不援、何也。
今、天下溺れたり。夫子の援けざるは何ぞや!
今、戦国の時代、この天下はすべて混乱し、危機に瀕しております。どうして先生は道徳や仁義を唱えるばかりで、このときにふさわしいであろう権謀術数を以て天下を助けようとなさらないのですか!
孟子答えて曰く、
天下溺、援之以道。嫂溺援之以手。子欲手援天下乎。
天下溺るれば、これを援くるに道を以てするなり。嫂溺るればこれを援くるに手を以てするなり。子は天下を手にて援けんとするか!
天下が混乱し危機に瀕しているからこそ、わしはそれを助けるために道徳や仁義を唱えているのじゃ。兄嫁が溺れているときには、それを助けるたけには手を差し伸べねばならないが、おまえは、天下を助けるにはこの二本の手を差し伸べればいい、と思っているのではなかろうな!(天下は手で助けられないのと同様、おまえがいうような権謀術数でも助けられないのじゃ。)
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孟子・離婁上篇より。
このお話はわかりやすいし、また「そうだ、わしも天下のために働かねば」という気持ちを喚起する不思議な力を持っている、ような気がします。いずれにせよ有名な話ですから「いまさら肝冷斎に紹介してもらう必要はない」というひとが多いのは事実であるが、まあいいではないですか。
この一章、わたくし肝冷斎は若いころ、「弟子をやりこめねば気がすまない孟子」というふうに読めて不快な気持ちで読んだものです。
しかし、わたくしも年老いてまいりまして、むかしと違ってまいりました。
「孟子」という書物は、孔子の言行を記した「論語」が、孔子の死後に弟子たちの記録をまとめて作られた、と考えられているのと違って、孟子自身が生前に、弟子たちと整理した、と推定されています。
孟子が絶対勝つ論争を「こうしましょう」「いやこうした方がかっこいいのではないか」と相談しながら編纂していた孟子とその弟子たちの姿を想像すると、なんとなく可笑しい。
かわいい感じ、さえしませんかな。