亡国の勉強じゃ!
以下のお話はわたくしも又聞きの又聞きですから、ほんとのことかどうか知りませんよ。
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明の第二代皇帝は太祖・洪武帝の嫡孫・建文帝
ということは今ではみんな知っていること(←知らないひとは勉強し直さねばなりませんなあ)ですが、明代のひとは(建前上)知らなかった。
なぜなら――
建文元年(1399)夏、太祖の第四子で建文帝の叔父に当たる永楽帝(このときはまだ燕王)が封地の北京において挙兵、長い内戦を経て建文四年(1403)夏、ついに長江を渡って南京を陥れた。世にいう靖難の変でございますが、こうして帝位を簒した永楽帝は、建文帝が帝位に就いていた時期を「無いもの」にしましたので(確かに建文帝即位直後から挙兵していましたので、永楽帝から見たら「そんな期間無いわ」ということだったのでございましょう)、永楽帝の子孫が後を継いだ明一代の間、「建文帝?そんなひとはおりません」ということになってしまっていたのです。
ところでこのとき、南京は陥落しましたが、その混乱の中で建文帝は行方をくらましてしまい、厳しい探索にも関わらず生け捕りにもされず、死体も発見できなかった。今に残る史書は、建文帝について、
遂にその終わる所を知らず。
最終的にどこでどうなったのかわからない。
と記しております。
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時はまず、これより約30年ほど遡る。
モンゴル族を漠北に追いやり、内地の対抗勢力を鎮圧し、ほぼチュウゴクを平定した太祖が、「朕の張子房」と信頼した参謀の劉基(字・伯温。誠意伯に封ぜらる。本HPでは3〜5年前に「郁離子」の著者として紹介しております。遥か昔のことなので何年何月何日だったか記憶が定かでございませんが、興味あるひとは調べてみられたい)に、次のごとく下問したことがあった。
汝有何術以教朕使守天下。
汝に何の術かありて以て朕をして天下を守らしめんや。
わしは子々孫々に永遠に天下を保たせたいと思っておる。そのために、おまえが考えられる手立てがあったら教えてほしい。
劉伯温は少し考えこんだ後、
「子々孫々に天下を保たせる手立てについては、陛下には他に知恵を出す者がおりましょう。わたくしが承知しておりますのは、陛下の子孫の己れの身を保つ手立ての方でございます・・・」
と答えた。
伯温のこういった「自分には先が見えている」という知識人ぶった態度が、太祖が最終的に伯温を信頼しなかった理由なのだろう、と思われるのですが、このころの太祖はそのような素振りは微塵も見せず、
「そうじゃな。天下を保つ方法はそのときそのときの子々孫々に任せればよい。・・・おまえの知っているという身を保つ手立てだけでも、わしの子孫のために承ろうか」
と言うた。
「御意のままに。ただし、一日だけお待ちくだされ」
翌日、伯温は
一小筺用鉄汁灌鎖
一小筺(キョウ)の鉄汁を用いて灌ぎ鎖したる
小さな一つの箱――鉄を溶かしたものを上から注いで、蓋をきっちりと閉じてしまっているもの
を持って参上した。
中には何が入っているかわからない。
伯温、この小箱を献上しつつ言う、
「この中に陛下の子孫に身を保たせる手立てが入ってございます。
後世非有大故不可開。
後世、大故有るにあらざれば開くべからず。
後々、大事件があるときでなければ、この箱を開けてはなりませぬ」
と。
「わかった」
太祖は箱を受け取った。中では小さいものが転がるような音がする。まるで紙でも入っているのであろうか、大きさの割りに軽かった。
この小箱は、南京に都した太祖の手から太子に伝わり、その子である嫡孫の建文帝に伝わったのであった。
――建文四年六月。
南京が陥落したとき、建文帝は短剣を以て自死しようと宮中奥深くに入った。
そのとき、この小箱のことを思い出したのである。
この状況を変えられるような何かが入っているとは思えなかったが、祖父からの「秘密」、最期に知りたいという好奇の心も働いて、建文帝は宮中に保存されていた小箱を取り出し、短剣を以てその箱にかぶせられた鉄片を削りとる。
そして、おもむろに蓋を開いた。
「!」
建文開筺視之、則見袈裟一伽黎一剃刀一。
建文筺を開きこれを視るに、すなわち袈裟一、伽黎一、剃刀一を見る。
建文帝が箱を開いて中を見てみると、袈裟が一枚、掛絡(僧衣にかけるもの)一本、剃刀一枚が入っていたのだった。
帝は一人ごちた。
此伯温教我也。
これ、伯温の我に教うるなり。
これは、稀世の大軍師・劉伯温がわしに教えてくれているのだ。
帝はその場で自ら剃刀を以て髪を剃ると、袈裟と掛絡を取り出して身にまとい、代わりに手にしていた短剣を箱に入れて、僧侶の姿に変じて宮中から身をくらましたのであったという。
――その後、建文帝の姿を見た者はいない。少林寺に隠れたという証言と雲南を経て遠く西方に逃れたという言い伝えが残されている。
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以上、清の姚之駰の撰むところの「元明事類鈔」巻五に、「伝信録に曰く」として引かれてあった。
「元明事類鈔」は膨大な量の文献をもとに元と明の時代の事物・事件を分類し整理した一種の「前例集」で、この「伝信録」(作者等不詳)の引用は「興亡」という項目に収められてあった。この間、某書店の年末セールで安くなっていたので買ってまいりました。
さて、後日談でございます。
この劉伯温の小箱は、皇帝家の重宝として永楽帝に収められ、やがて永楽帝とともに北京に持ち運ばれ、宮中の奥深くにしまいこまれた。
それから140年余の後(1644年)。
最後の皇帝・崇禎帝は北京の宮城で李自成の兵に囲まれ、「二度と皇帝の家に生まれてくるなかれ」と言い聞かせながら、宝剣で皇子・皇女たちを刺し貫き、自らも首を刺したが死に切れず、さらに立ち木に帯をかけ、縊れて死んだのであった。その死に様の激しさ、歴代の皇帝の中にも類を見ず、清朝に入って謚名して「壮烈帝」という。
ところが、あるいはそのときに用いた宝剣こそ、建文帝が投げ入れた剣であった、とも言うのである。
さすれば崇禎帝も、宮城にてもはやこれまでと思い定めた時に、劉伯温の小筺を開いたのであろうか。そして、そこに一振りの短剣を見出して、
――これが劉伯温の秘策?
一瞬のとまどいの後、
――なるほど。それが皇帝が末の世まで己れの身をまっとうする道、ということか。
と納得し、吹っ切れたように笑いさえ浮かべながら、その刃を己れと己れの愛する者たちに向けたのだ、ということであろうか。