平成21年12月3日(木)  目次へ  前回に戻る

「さて、もう眠いので眠るのだ」

と思って眠ろうとしましたところ、紙魚のシミの介が出てきまして、

「これこれ、肝冷のだんな、今日は読書もせずに寝るんですかな」

と言うので、

「そうですよ、眠いときに漢字ばかりの本なんか読むと目がしょぼしょぼしますからね」

と答えると、シミの介曰く、

「では、目で見なくても本が「読める」方法を教えてあげましょう」

と言うのである。

「ほう、そういう方法があるのか、それなら教えてもらおうかな」

「へへへ、やはりそう来やしたね」

シミの介はもみ手をしながら、

「わたくしども紙魚の体液より抽出しましたるこの「シミジュルル」を口に含みまして、それから本を食べると、あら、不思議、読んだのと同じ効果があるのでございますよ」

「へー、それは便利だね。じゃあ、それをいただこうか」

「へへへ、しかしだんな、無料とはいきますまい」

「む。有料なのか」

やはりカネです。カネ・カネ・カネの世の中。ムシの世界にまでカネの力が浸透しているとは。

「へへへ、いつもご愛顧を蒙っているだんなですからね、特別に三十、にしておきますぜ」

「三十か、かなりふっかけやがるな」

わたしは財布からしぶしぶ三十円を出して紙魚に与えた。

「へへへ、毎度でございます」

シミの介は代わりにシミジュルルの入った小瓶をわたしに渡して、ぴょうん、と飛び跳ねると書籍の中にもぐりこんでしまった。

わたしはシミジュルルを口に含んで、そこらにあった本を食べてみた。

以下、今日食べた本に書いてあった明の豐坊というひとの話をします。むしゃむしゃ。

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豐坊、字・存礼は浙江・鄞県のひと、嘉靖二年(1523)の進士である。

進士となって礼部主事の職に就いたが、「大礼」問題(嘉靖帝の先代・正徳帝と、嘉靖帝の実父・興献王のどちらを上位に祀るかの問題)に関して意見を奉って帝の怒りを買い、杖で打たれた上、南京の礼部に移され、さらに通州知事に左遷された。

ここで不正を働いたとして免官になった。

実家に帰って隠棲していたところ、違法行為に連座して呉中に逃亡し、名を道生、字を人翁と変えて、売文しながら暮らした。

・・・というひとであり、これを聞いただけだと世に容れられなかった不幸なひと・・・と同情してしまうのですが、実際のところは、

「これは嫌われて当然かも」

な、かなり変なひとである。

彼は才能高く博識で、

下筆数千言立就、於十三経皆別為訓詁、鈎新索異。

筆を下せば数千言立ちどころに就(な)り、十三経においてみな別に訓詁を為し、新を鈎し異を索す。

筆をおろせば数千字の文章があっという間にできるという文才があり、また、十三の経典について、(過去の注釈書を読むだけでなく)すべてに自分の考えで新たな読みと注を施し、その内容は新説を釣り上げ、これまでと違う考えを探ったものであった。

という俊才であった。

十三経というのは、周易(易経)、尚書(書経)、毛詩(詩経)、周礼、儀礼、礼記(以上「三礼」)、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋穀梁伝、論語、孝経、爾雅、孟子の十三の書をいう。

読むだけでも骨が折れますが、すべてについて新しい解釈を施すなどというのはその精力すさまじいものがあったといえよう。

しかし、彼のおかしな自尊心は、自分の説が批判されることには耐えられなかったのである。現代の自分ではなく、古い時代のひとの注釈だ、といえば誰にも批判できないのではないか、あるいは自分でもそれはそうだと納得せざるを得ないような批判を受けたときにも、自分の名前でなければ一緒になって批判することもでき、心を傷つけられることもないのではないか、と考えた・・・のであろう、彼はこれらの新説を

毎託名古本或外国本。

毎(つね)に名を古本あるいは外国本に託す。

すべて、自分が発見した古い注釈書だとか、見出した外国(朝鮮や日本など)に伝わっていた注釈書だと偽って発表したのである。

現在(明の終わり〜清の初め)出回っている「石経」「大学」などには彼が作ったテキストに基づいているものもあり、「子貢詩伝」と呼ばれる書物は、孔子の弟子の子貢の名を借りた、彼の全くの偽作である。

また、彼の家には無数の古い碑石の拓本があったが、彼はこれを真似て真偽の見分けのつかない写本をたくさん作り、本物と偽者を混ぜて「法書」(お手本集)を作り上げ、その中のどれが本物でどれが偽者か他の誰にもわからなくしてしまった。

彼はこれらの行為により、詐欺事件に巻き込まれて、罪を得たのである。

自業自得というしかあるまい。

しかも

為人狂誕傲僻、縦口狥意、所至人畏而悪之。

人となりは狂誕にして傲僻、口を縦ままにして意に狥じ、至るところ、人これを畏れ、悪む。

その性格は、狂ったようでありほら吹きで、傲慢でひがみぐせがあり、言いたい放題でやりたい放題であったから、どこに行ってもまわりのひとは彼のことを恐がり、また嫌がった。

というような人がらであった。

もとはこれほどひどい人ではなかった、罪に落とされたためにひね曲ったのだ、と同情するひともあったが、いずれにしろまともに生きていけるひとではなかったのだ。

ある時期、沈嘉則という富豪が彼の才能を愛して支援してくれたが、あるひとが

「彼はあなたの詩を読んで嘲笑していましたよ」

とからかい半分に告げ口したところ、大いに怒り出し、

「もはや現世の不正は許しがたい」

と言い出して、多くのひとびとを招待して天帝を祀る儀式を開催し、そこで天帝に対して許しがたいひとびとを呪詛する「呪詛書」を読み上げたのであった。

呪詛書は呪うところを三等に分け、

第一等として、現在、中央地方の高官になっているひとの中で、彼の悪むひとたちの実名

第二等として、沈嘉則をはじめとする地方の名士たちで、彼が自分を憎んでいると信じ込んでいるひとたちの実名

を掲げ、さらに第三等として、

「鼠、蠅、蚊、蚤、虱」

と読み上げたので、集ったひとびとは大笑したという。

本人が冗談でやったのか、本気でやったのか、まわりのひとは理解に苦しんだが、おそらくは本気でやったのであろう、少なくとも沈嘉則のもとにはその後まったく寄り付かなかった。

後、貧困の中で死んだ。

死後、張時徹が彼の詩集に序文を書き、その中で、

・・・先生が病床に着いたとき、

僮奴絶粒而逋亡、賓客過門而不入。

僮奴は絶粒して逋亡し、賓客は門を過ぎるも入らず。

下男どもは食べる物が無くなったので逃げ去ってしまい、お偉方は彼の家の門前を通り過ぎるばかりで立ち寄ろうとしなかった。

ために孤独と飢餓の中でひとりその身を終えたのは、まことに悲しいことではないか。・・・・・・・・・

と書いたので、彼を直接知らなかったひとたちの間では同情と人気が高まり、その詩が後世に伝わったのは、彼にとっては幸運であったというべきであろう。

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「列朝詩集小伝」丁集上より。むしゃむしゃ。

君子固窮節、感慨成悲歌。

君子もとより窮まるの節あれども、感慨悲歌を成せり。

君子といえども窮迫するときはあるが、君子は小人と違ってそんなときにも守るべきことは守るものだ(←「論語」による)。しかし、あまりに思いがあふれてきて、悲しみの歌を歌ってしまう。「雑詩」より)

など、逆境における孤高悲憤の詩で知られるひとですが、ここまで性格がひずんでおりますと、落ちぶれて当然の気もいたします。ひとびとに攻撃されてこうなってしまったのだ、と考えればひずむ方向は違えどもこのわしも同じ境遇である。そう思えば悲しくなってきたが、歌おうにも歌うべき悲しみの歌を作れない。

 

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