次の文章中「わし」とは誰でしょう。ちなみに、時代は唐の時代です。
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わしはひいひい言いながら山道を登ってきた。
太っている上、まだ昨日の宴会の酒が抜けぬ。わしは今朝、金陵の町を発った。今日中に長江に面した船着場に向かい、長江上流へと旅立つのである。
それにしても昨日はひどい目に会いました。わしはかなり酔っ払って、
海水昔飛動、三龍紛戦争。 海水昔飛動し、三龍紛として戦争す。
鐘山危波瀾、傾側駭奔鯨。 鐘山波瀾に危うく、傾側して奔鯨を駭(おどろ)かす。
黄旗一掃蕩、割尽開呉京。 黄旗一たび掃蕩し、割り尽くして呉京を開けり。
むかしむかしのことである。この金陵のあたりまで
海水が飛びあがるように遡ってきたことがあった。三匹の龍が激しく争いあったのだ。
金陵山は波に呑みこまれそうになり、
傾き崩れはじめてさしも自在な鯨さえ驚いた。
そのとき黄色い旗を建てて帝王が現われ、
混乱を収拾し、傾いた部分を打ち壊して、東南の都=金陵を開いたのだ。
と、三国の呉の国のことを詩的なメタモルフォーゼをしまして歌いまくったのだった。
その後、六朝の国々が交代し、隋・唐よりは帝都では無くなったが、今も秦淮河のほとりの遊蕩街(うかれまち)では、女性の優しい接待と音楽の快楽は天下に優れている。
時は春の終わり、清風が山川を洗う時節。そのときにわしは金陵の地を去って、これから西に行くのだ。
「何で西に行くんじゃ?」
と友が言うので、わしは答えて、
欲尋盧峰頂、先繞漢水行。 盧峰の頂を尋ね、先に漢水を繞(めぐ)り行かんと欲す。
香炉紫煙滅、瀑布落太清。 香炉の紫煙滅し、瀑布落ちること太(はなは)だ清ならん。
江西の盧山に登ろうと思う、まずは麓をぐるりとめぐる漢水をさかのぼれば、
(盧山中の)香炉峰の紫の霞も消え、名高い滝の落下がとてもはっきりと見えることだろう。
さらに盛り上がりまして、
若攀星辰去、揮手緬含情。 もし星辰を攀じり去らんも、手を揮うに緬として情を含まん。
そこまで行けば手を延ばすだけで星々に届くだろうから、手を延ばそうと思うけど、
今ここで君の手を握るわしの手は、離れ難い思いを拭い去れはしない。
「どはははは」
と大笑いして、さらにこの歌を歌姫に繰り返し歌わしめたが、何しろかなり「頭の変なひと」みたいなメタファーを多く使った歌になったので、気ぐらいの高い歌姫はたいへんいやがったのだ。
「なんだと、わしの歌が歌えへんのか」
とからみまくって歌わせたのであった。
思い出すと恥ずかしい。
「うう、酔ってたときのこと思い出すと恥ずかしいなあ」
と鬱々しながら峠で一休みしておりますと、
「うわ」
と唸ってしまった。
昨日怒らせてしまった歌姫が、後ろの方から峠を上がってきたのである。
「あら、昨日のお客さんじゃないの?」
と歌姫さまがご機嫌そうにおっしゃるのですが、昼間の光の下では気弱なわしじゃ、
「これはこれは歌姫さま、ご機嫌そうに何よりにございます」
とぺこぺこしました。
「歌姫さまはどちらへ?」
「あたいは金陵の街ももう飽きたから、これから長江を遡って襄陽あたりまで行こうと思うんだよ」
「そ、そうでございますか。わしも盧山からもしかしたら襄陽の方に流れるかも・・・仕官先を探しに・・・」
とぶつぶつ言いますと、歌姫さまはにやにやしておられます。やはり昨日のことを含んでおられるのだろうか。
「あんた」
と歌姫さまはおっしゃられる。
「は、はい」
「昨日の歌、よかったよ」
「へ?」
「昨日、あんたが最後に歌った歌さ」
「は?」
最後の方はもう酔っ払って、歌はさらに歌ったが、もう何を歌ったか覚えておらぬ。
「ど、どのようなものでしたかな」
「酔っ払って覚えてないのかね。あんた、この先ぜったいお酒で失敗するよ」
「はい」
「じゃあ、あんたが作った歌を歌ってあげよう。その代わり、あたいはこれから襄陽でこの歌を歌わせてもらうからね」
歌姫は背負った琵琶を取り出すと、弾きながら歌った。
風吹柳花満店香、 風は柳花を吹き満店香ばし、
呉姫圧酒喚客嘗。 呉姫、酒を圧して客を喚びて嘗めしむ。
金陵子弟来相送、 金陵の子弟来たって相送れば、
欲行不行各尽觴。 行かんと欲せども行けず、おのおの觴を尽くす。
請君試問東流水、 請う、君、試みに東流の水に問え、
別意与之誰短長。 別意とこれと誰(いず)れか短長なる、と。
風は柳の花を吹きはらい、店いっぱいに花の香りが満ち満ちた。
呉のくにの娘たち(金陵の女たち)は、酒を絞り、客を呼んで飲ませてくれる。
金陵の若者たちが次々に集ってわしを送ってくれるので、
わしは旅立とうとするが旅立てぬ、この一杯を尽くすまで。
きみよ、試しに、東の海に向かう長江の水に問うてごらんよ、
別れの悲しみとこの水の流れと、どちらが長く続くか、と。
ああ、そうでした、そういう詩も作ったなあ。
歌姫はやがて立ち上がり峠から西の方に降りて行った。
わしは遅れて立ち上がり、北の方を目指した。
歌姫とは、そのうちまためぐり合うかも知れぬ。互いに旅の身の上であるゆえに。
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「わし」は李太白ですね。@の五言詩は「留別金陵諸公」(金陵のみなさんが送別してくれるのに答える)で、Aの七言は「金陵酒肆留別」(金陵の酒場で送別会してくれたのに答える)である。特にAの方が有名で、
呉姫、酒を圧して客を喚びて嘗めしむ。
の一句は古来
見新酒初熟、江南風物之美、工在圧字。
新酒の初めて熟し、江南風物の美なるを見る、工は「圧」字にあり。
新しい酒が醸しだされる季節の、江南の風物の美しさをみごとに歌いこんでいる。その巧みさは「圧する」という(むすめたちの肉体の重厚を暗示し、酒の香りともあいまった、においたつような官能美を映し出した)一字にあるといえよう。
と評される名句(「漁隠叢話」)である。