「今日は早く眠らないといかんのですよー、明日は仕事なのに、今やっと遠い遠いところから帰ってきたところなんですから、疲れてそのまま眠ってしまいそうだ」
とわしが言うと、酔茶老人はふむふむと頷き、
「まあそういうな。わしもせっかく清の時代から時間を超えて来たのだから、何か話して行かんとなあ。・・・それでは今日のところは短い話をしよう。おぬしは「小夜叉」を見たことがあるか」
「小さい鬼ですか。見たこと無いですよー、大きい鬼も無いですよー、しかし、ニンゲンの姿をした鬼はたくさん見た」
「話して進ぜよう・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
19世紀のチュウゴクである。
保陽(保定府のことなり。直隷(河北省)に属す)のとある読書人、夜明け前に目を覚まし、
「そういえば昨夜は史書を読み、箚記(メモ)を作っていた。疲れていたのでそのまま眠ってしまい、書斎の文具を片付け忘れたな・・・」
と気づきまして、灯火を持って書斎に行った。
灯火を机の上に置き、さて筆と墨を片付けよう・・・としたところで気がついた。
墨床上臥一物。
墨床上に一物臥す。
墨置きの箱の中に、何か小さなモノが寝転んでいるのだ。
「む・・・むむむ?」
墨置きの箱をベッド代わりに寝転べるのだから、その背丈は三四寸ほど。
如夜叉状、赤髪藍身、袒臂、着紅袴、枕墨酣眠、翕翕猶未醒也。
夜叉の状の如く、赤髪にして藍身、袒臂にして紅袴を着け、墨を枕にして酣眠し、翕翕(きゅうきゅう)としてなおいまだ醒めず。
その姿は伝え聞くインドの魔物・ヤクサ――人間に似ているが、角と牙を生やし、髪は赤く、体は青い。両腕はむき出しで紅色のパンツを穿いている。
そいつは、墨置きの中の古い墨を枕にしてぐっすりと眠っており、きゅう・きゅう、と寝息を立てて起きようとしないのだ。
そのひとはびっくりして、しばらく茫然としていたところ、灯火のゆらめきに気がついたか、
物已覚、翻身一躍、化為蝶。
物すでに覚め、翻身一躍して化して蝶と為る。
小夜叉は目を覚まし、一瞬そのひとと目を合わせたが、次いで身を翻してひと飛びすると、――蝶に変化した。
そして、窓の紙の破れから、ようやく白みはじめた夜明けの空に飛び去って行った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「酔茶志怪」巻二より。
「夜明けに夢を見たのだろう、と納得してしまうなかれ。そんなことを言い出したら、おまえが昼間見ているものだって、すべて夢でしかないのではないかな」
と李酔茶先生はにやにやした。
わしもこれから疲れて眠るので、朝方にはこんなのを見るかも知れぬ。