虚空坊といふ者、身の丈七尺八寸、力強くして画きたる紙衣(かみぎぬ)に三尺五寸の太刀をはき、蛭巻の八角棒を横たへ、一尺五寸の高下駄を履き、髪長く、色黒し。「ぼろ」と云ふものになり、一人の美女を妻とし、同行三十人、諸国をありくと云へり・・・。
と書き出される「ぼろぼろの草子」は栂ノ尾の明恵上人の作と伝えられる中世の物語である。
この「ぼろ」あるいは「ぼろぼろ」または「ぼろんじ」(梵論師)と言われる有髪、破戒の僧は、中世から現れ、近世には檀家を持たない特異な仏教教派・普化宗を構成し、「虚無僧」と呼ばれるようになるのでございますが、次の一文などは、その中世半ば・14世紀の姿を生き生きと伝えるものではございますまいか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宿河原といふところにて、ぼろぼろ多く集りて、九品の念仏を申しけるに、外より来るぼろぼろの、
もしこの御中に、いろをし房と申すぼろやはおはします。
と尋ねければ、その中より、
いろをしここに候。かく宣(のたま)ふは誰そ。
と答ふれば、
しら梵字と申す者なり。
「九品の念仏」とは、極楽往生に「上品」「中品」「下品」の三段階があり、そのそれぞれに「上生」「中生」「下生」の三種がある、すなわち3×3で9種類の往生の仕方があることから、阿弥陀如来に導かれて極楽浄土に生まれ変わることを願うて行う念仏をいう。「いろをし房」「しら梵字」はそれぞれぼろぼろ僧の固有名詞。
なお、宿河原は、武蔵国の宿河原(現・
宿河原というところで、ぼろぼろ僧たちが多数集り、極楽往生を願う念仏会を開いたときのことだ。
ある日、どこかからひとりの若いぼろぼろ僧が訪ねてきて、
「こちらの念仏会にはいろをし殿とおっしゃる僧がおみえではないか。」
と問うた。すると会衆の中から、
「わしがいろをしじゃ。おまえさんは何者じゃな」
と答える声があった。中年の眼鋭いぼろんじ僧である。
訪ねて来た者が言う、
「わたくしはしら梵字と申しまする」
いろをし、顎を撫ぜながら、
「はて。しら梵字どのとな? うーむ。わしに如何なる御用か」
と問うれば、しら梵字、涼しげなまなこぎらりと光らせて、
おのれが師なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人にあひ奉りて、恨み申さばやと思ひて尋ね申すなり。
「わたくしの師匠の某と申したひと、東国にて、いろをしとおっしゃるぼろんじに殺されたと聞きました。そこで、そのひとにお会いして、恨みの思いを告げ申したい、と思い、かくはお訪ねした次第でござる」
と言うた。
いろをし、顎を撫ぜていた手を止めて、顔の前で「ぽうん」と打った。
ゆゆしくも尋ねおはしたり。さること侍りき。
「ようぞお見えになられたのう。確かにそのようなことがござったよ」
そして、
「せっかくお見えいただいたのだが、ここでご面会申し上げたのでは念仏会の会場(「道場」)を汚してしまうことになり申す。前の河原に出ましょう」
と言えば、しら梵字も頷いた。
いろをし、他の会衆を振り向いて言う。
「まことに申しわけないが、みなさま、どうぞわしらのことは放っておいていただきたい。多くのひとが騒ぐようなことになると仏事の妨げともなりましょうほどに」
長老とおぼしき白髯のぼろんじ、他の衆に
「よいわ。いろをしの言うたとおりにせよ」
と下知したものである。
かくして、いろをしとしら梵字は、ふたりして出て行った。―――
――― 一刻ほどして長老、称名念仏の声を休めて、
「これ、誰ぞ、前の河原を見てまいれ」
と言うので、若い衆二人三人して見に行くと、さきほどの二人は、
心行くばかりにつらぬきあいて、共に死ににけり。
誰にも邪魔されずに刀剣で闘いあい、相打ちになって死んでいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ、梵字、漢字などいひける者、そのはじめなりけるとかや。世を捨てたるに似て、我執深く、仏道を願ふに似て、闘諍をこととす。放逸無慙(放逸にして恥を知らぬ)の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに、書きつけ侍るなり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、吉田兼好の「徒然草」第百一十五段に書いてありました。
兼好法師のおっしゃるとおりこの二人はいさぎよくてかっこいいのですが、そのいさぎよさそのもの、あるいはしら梵字さんの「師」のカタキを狙う執念――これは、これより200〜300年後の
武士道とは衆道と見つけたり!
の時代精神の匂いがしてしようがありませんぞ。(松戸市立博物館の「虚無僧」コーナーに触発されて記す。)