清の時代、文定公の陸氏は善く飲むと評判であった。
既に隠退後のこと、
年九十余、一日微雪、一子五孫侍坐、公命酌。
年九十余、一日微雪し、一子五孫侍坐するに、公、酌を命ず。
九十を過ぎたある冬の日、少し雪がちらついた。公の回りには息子が一人と孫が五人いたが、公は
「飲もうではないか」
と酒の用意を命じたのであった。
そして、言うに、
歳晏天寒。今日須満千觴。
歳晏にして、天寒し。今日すべからく千觴を満たすべし。
「晏」は「空が晴れている」という字ですが、日や年の「晩」の意もある。
もはや年も暮れようとしているが、今日は気候も寒い。どうじゃ、今日は千杯のさかずきを酌んでみようではないか。
――よう言うたわ、くそじじい。
――今日こそくたばらせてくれようぞ。
と心の中で思ったかどうかは知りませんが、一子五孫は唯々として従い、
逓飲至五百觴。
逓(たが)いに飲んで五百觴に至る。
一人一杯づつ呑んで五百杯まで来た。
ここまでで、一人当たり500÷7=70杯ぐらい飲んだことになります。
諸孫皆狼藉酔臥。公笑曰、孺子何孱也。次第命就寝。
諸孫みな狼藉酔臥す。公笑いて曰く、「孺子(じゅし)、何ぞ孱(せん)たるや」と。次第に命じて就寝せしむ。
孫どもは(ここまでで)みな乱れ、酔って横になってしまった。
文定公は笑い、
「こぞうどもはどうしてこんなに脆弱なのかのう」
と言うて、順次寝室で眠るよう命じた。
「孱」(せん)は「弱い」。(字形は「子供の死体がごろごろしている」と見える)
その後は、
父子対挙至八百觴、子亦酩酊辞出。
父子対して挙げて八百觴に至り、子また酩酊して辞出す。
公とその息子さん(といっても五十ぐらいか)の二人で互いに杯を挙げあっていたが、八百杯まできたところで息子さんもまた酩酊して退出した。
公と息子さんは、二人だけで300÷2=150杯飲みましたので、公はここまでで220杯になる。
ここに至って公は、
「なんと。情けないことじゃ。・・・しかし、一人で呑むというのもさびしいものじゃな・・・」
とつぶやき、
命二老妾出侍、乃独酌巨觥。
二老妾に命じて出侍せしめ、すなわち独り巨觥を酌む。
長年身の回りの世話をさせてきている二人のばばあ侍女を呼び出し、
「おい、あれを持って来るのじゃ」
と特大の盃を持ってこさせて、ばばあに酌をさせてひとりで飲み始めた。
「觥」(コウ)は詩経の「疏」にいう、
觥大七升、以兕角為之。
觥は大いさ七升、兕(ジ)の角を以てこれを為(つく)るなり。
「觥」(コウ)という盃は七升の酒が入る大きさ、兕(すなわち水牛)の角を以て製作する。
とある。もとよりこれは古代の制、チュウゴクでは唐ごろまでは一升=0.2〜0.3リットルであったから、「七升」といってもゲンダイ日本の一升=1.8リットルぐらいをイメージすればいいだけなので、読者諸兄(←諸姉が読んでいるのは確認されたことがないのでこう表記したもの。共同参画を否定するの趣旨ではないので念のため)のようなエラぶっている方々は「なんだ、大したことないね」と一笑に付されることでしょうなあ。
とりあえず「巨觥」というのは比喩的なもので、必ず「七升」入らねばならぬものではないが、少なくとも老公お気に入りの大きな盃であるらしい。
公はこの巨觥で、
満一千始罷。
一千に満ちて始めて罷む。
累計千杯まで行ったところで、ようやく
「今日はこれぐらいにしておくかのう」
と言うて飲むを止めた。
ということである。
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清の半ば(だいたい18世紀半ばに卒した)のひと・王柳南「柳南続筆」巻三より。
さて、陸文定公は、この日、何杯のお酒を飲んだことになるのでしょうか?(最初の方の觴も後の方の觥も一杯は一杯と数えることにする)
1月29日の「張百杯」なんてメじゃない、ことがわかりますね。
やっぱり昔のチュウゴクの読書人階級のひとはすごかったのですなあ。われらのような「ゲンダイ」「ニホン」「しもじも」と三拍子揃った者から見れば、まるで同じニンゲンとは思えぬぐらいの立派さじゃ。感動した。真似する気にもなれませぬ。
ちなみに今日はMT氏の家に行く。こどもらの成長を寿ぐ万歳老人として招かれたもの。かなりの量のメシを食わせてもらい帰ってきたが、わしの食欲は陸文定公の酒量のようなすごいものではなく、「普通のニンゲンの善く食うひと」のレベルである。