「遯斎閑覧」にいう、
宋の張伯玉というひとは、たいへんな酒量のひとであった。
能飲至数斗不酔、世号張百杯。
よく飲みて数斗に至るも酔わず、世に号して「張百杯」という。
よく酒を飲み、数斗飲んでも酔うそぶりもなかったので、世間では「張百杯」どのと呼び合っていた。
「おお、数斗も飲むのか!」
と驚いたかも知れませんが、実は宋代の一斗は6.6リットルぐらいだそうですから、「数斗」でやっとゲンダイ日本の一斗=約18リットルぐらいです。ひとによっては「大したことない」のかも知れません。
このひと、
将飲時、先置清水大盂于其側、毎尽一杯、即吸水漱滌。
まさに飲まんとする時は、まず清水の大盂(う)をその側に置き、一杯を尽くすごとに即ち水を吸いて漱滌(そう・てき)す。
「盂」は「おさら」の一種で「はち」のこと。「漱滌」の「漱」は「すすぐ」「うがいする」、「滌」は「洗う」。
さあこれから飲むぞ、というときには、まず大きなお鉢に清らかな水を入れたものを側に置いておき、一杯飲み終えるごとに、すぐに水を吸い込んで、うがいし、口をすすぐのであった。
「どうしてそんなことをするのですかな」
と
人問其故、云、酒之毒在歯、滌去則不能為患。
人その故を問うに、云う、「酒の毒は歯に在り、滌去すれば患を為すあたわず」と。
あるひとが理由を問うたところ、
「お酒の毒素は歯に残るものなのじゃ。すぐに水で漱ぎ洗えば悪酔いさせられることはない」
と答えた。
「そんなことあるか。」
と言いたいところですが、大臣にまでなった陳康民というひとが福建の泉州の県令だったときに
用其説、亦能飲至一斗不酔。
その説を用いしに、またよく飲んで一斗に至るも酔わず。
上記の張氏の説を採用してみたところ、やはり一斗を飲むことができて、しかもちっとも酔わなかったそうである。
というのだから、実験でも確かめられたことであったのでした。
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それにしてもそんなに飲んでも「酔わない」のですから、何のために飲むのか、不思議な感じがします。しませんか。
このお話が載っている「遯斎閑覧」は宋の陳正敏の撰した「こういうお話」をたくさん集めた筆記録であるが、今回は「続墨客揮犀」巻八に収めるところを引いた。ので、文責は一に宋の彭乗さんに帰するものである。