フィールドワーク録19−1 (起:平成30年1月1日(月)) 目次へ 平成29年1月〜12月へ
ふたたび明石のタコに逢うことがあるだろうか。
1月1日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇伊勢神宮内宮・御裳裾川畔
満月が光っているぜ。
1月3日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (古墳ポイント1、神社ポイント0.5)
〇上福岡を逍遥。郷土資料館が休みのため再訪の必要あり。
・権現山古墳群 ・・・ 本年初古墳。3世紀後半、関東でも最初期の前方後方墳(2号墳)を中心に、方墳10(1は既に滅失)が存在。4世紀になると関東でもヤマト朝廷と連携して前方後円墳を作る豪族が出てくるが、それ以前、東海地方と連携していた豪族の墳墓と推定される。上総の海上氏の初期と同じ時代である。高台にあり、入間川などから望まれたものと思われる。
家康さまが鷹狩に来て、2号墳の上にご休憩されたので「権現山」というのだそうです。
・上福岡駅の碑 ・・・ 大正3年(1914)に東上鉄道が開通し、上福岡駅が開業したことを記念する。題額は鉄道院総裁・床波竹次郎。
地元の廻船問屋「福田屋」の十代・星野仙蔵(安大郎、1870〜1917)が衆議院議員となって引っ張ってきた、と書いてある。
・亀久保神明社 ・・・ 16世紀末ごろに、所沢の豪族が開いたらしい。
江戸時代以降、上福岡付近の総鎮守。明治に入って村社となったよし。
ところで、肝冷斎は本年から、各地フィールドワークに「ポイント制」を導入することになりました! 本日は、権現山古墳群到達により古墳ポイントを1ゲット!
1月6日・7日・・・・・・・・・・・・・・・・・(写真は今後追加)
5日に深夜バスに乗って、南海探索を敢行!高知駅前からレンタカーでレディー、ゴー!
〇土佐神社 ・・・ アジスキタカヒコネノミコトを祀る土佐一之宮なり。
楼門から参道をたどって到着。
拝殿裏の「志那禰之森」(しなねのもり)。土佐でも聖山・神地に「〇〇の森」と通称する例は多いようである。
神さまが海岸から投げて寄越した礫岩。中古時代はこの神社の近くまで海岸であったのは確実だが、この岩は地質的に周囲の岩石とはまったく別物という。ナゾが深い。
〇県立歴史民俗資料館 ・・・ 長曾我部氏の消長と、高知の歴史民俗について展示する。
とにかく、これが見たかった!奥物部の山中にのみ伝承される「陰陽道いざなぎ流」。二十年ぐらい前に企画展示「いざなぎ流の宇宙」というのがあってその図録がたいへん貴重なものとされているが、結局ここでも手に入らず。一応バックナンバーを手に取らせてもらったが、やはりすばらしい情報量である。
いざなぎ流の「太夫」が作る「ひとかた」。それぞれ名前と役割があるらしい。
いざなぎ流を信仰する村に伝わる「十二仮面」のひとつ。代々の当主が「時が来るまで見てはならぬもの」と言い伝えて箱の中に納めてきたものであるが、もう後継者がいないので、表に出てきたのである。
〇岡豊城(おこう・じょう) ・・・ 長曾我部氏の居城でした。続日本の名城百選に選ばれたよし。
「詰の段」(本丸)に、木造櫓が建てられている。城跡碑の題字は田中光顕。
〇小野神社 ・・・ 延喜式内。
この小丘の上に鎮座する。
〇土佐国衙跡 ・・・ 紀貫之もいたところです。
中央の森が国分寺。その左手の方が国衙跡である。岡豊城から見下ろした。
〇物部川をどんどん遡上する。
・四つ足峠 ・・・ 徳島(阿波)との県境である。渓谷には棚田が多く、雪で覆われていた。
このずっと上流の方なんです。
・市宇十二所神社 ・・・ いざなぎ流の大祭が行われる神社。積雪の中、神威ビシビシたるものあり。「市宇」は「一宇」と同じで「平氏」の暗号である(「平」の一字である意とも、あるいは「一于」を縦に書くと「平」になるから、とも)。
鳥居をくぐって左手か裏手の方の広場がいざなぎ流大祭が行われた場と思われる。京極〇彦先生も寄付していた。
・別役・小松神社 ・・・ 延喜式内。全国の小松氏の崇敬するところ、ということであるが、とにかく遠いはるかなところにあった。別役がすでに解村となり、また鳥居のあるところから「宮の谷」の底まで降りないといけないのででぶにはつらい。
こんな階段を降りていきます。ということは帰りにはまた昇って来なければならない。373段あるそうです。
この鳥居は谷の方に向いています(上の階段は拝殿左後ろにつながっている)。もともとは谷を昇ってきて参拝するものであったのであろう。
神社まで行く途中に祠の跡地があり、その付近にあったもの。何に使われているのかはわからなかったが、現役で動いている唐箕を見たのは初めてである。
・馬岡公坊神社
・仁井田神社
・大川上美良布(おおかわかみ・びらふ)神社 ・・・ 延喜式内。「美良布」は「韮生」(にろう)の転嫁。「N→М→B」と子音が変化したのである。
拝殿すばらしかった。向かいにアンパンマンミュージアムあり。
・アンパンマンミュージアム ・・・ やなせたかしせんせいは香美市の出身なのだ。吉井勇さんが疎開してたりもしたそうです。
〇龍河洞 ・・・ 日本三大鍾乳洞、日本九名洞の一(←いずれにしろ、南大東の星野洞が入っていない段階で、観光鍾乳洞としても大したことはない、と断定できる)。土御門上皇※も行幸されたほか、昭和十二年には双葉山が来訪。双葉山の「へそこすりの岩」もある。 ※上皇は承久の変で土佐に流され、後に阿波にお移りになられた。
「神の壺」と呼ばれる珍しいもの。この洞には弥生時代の住居跡があり、弥生人が放置した壺の回りを鍾乳石が覆ったもの。昭和初年に発見された直後、壺の中に宝物があると信じてコワそうとした傷がある、というのもご愛敬である。
「神の壺」以外にも出てきた弥生式土器等は、龍河洞博物館内にある。この博物館を作ったころは、「二世帯十人程度の家族が暮らしていた」という牧歌的な解釈になっていたようで、そのような解説板もあるが、その後の調査で、高知空港近くの田村遺跡関係者の狩猟用の根拠地か、田村側・上流側は不明だが軍事的前進基地ではないか、ということになっているようです。
附属の「鳥類館」にいたオナガドリ。尾を長くするときは、このような「止め箱」(とめこ)というものに入れられて、ほぼ動けなくされてしまうんだそうです。ブロイラーよりはいいかも知れんがエサ食って運動しないと肥満になる。
〇野々宮神社 ・・・ 源平合戦の際に、源行家が平家方を迎え撃った「ののみやの森」の故地である。
今となってはまわりに森なんか無いんです。何らかの聖地であったので「もり」と呼ばれただけなのかも。
〇深淵神社 ・・・ 延喜式内。龍河洞の弥生遺跡も含め、物部川は河口近くに田村遺跡という弥生期の巨大遺跡(中世の田村荘)があり、ここへの流通、防衛などのために物部川流域は古代から開発されていたのである。
以下、赤岡の町にて。
〇絵金蔵(えきん・ぐら) ・・・ 幕末の土佐で河田小龍と並び称された絵師・弘瀬金蔵(通称・絵金)の作品を紹介。土佐藩お抱え絵師追放とかおどろおどろしい絵で有名なので、すごい性格のまずいひとかと思っていたが、ふつうのひとだったようです。祭礼の見世物がいろいろ禁止されていたので、彼とその弟子たちの「屏風絵」という芝居絵が土佐の村々の幕末〜明治を彩ったのだ。
〇無人島長吉の墓 ・・・ 18世紀、鳥島に漂流して、十数年生き抜き、後に漂着した仲間とともに自力で八丈にたどりついた長吉の墓と顕彰碑と銅像。
このひとのことは昨年、国立公文書館の展示「漂流ものがたり」で知った。
1月8日 ・・・・・・・・・・・・・・・
千葉県千葉市蘇我駅へ。
〇蘇我比v神社 ・・・ 延喜式内。「v」(ビ)はヒツジの鳴き声で、ここでは「メ」と読みます。ソガヒメ神社。蘇我の地名のもとになっている古社ですが、明治の大火で往古よりの書類が焼けているとのこと。口頭伝承では、ヤマトタケルが浦賀水道を渉ろうとしたとき、人身御供となった弟橘姫は五人の姫君を伴って入水したのであったが、そのうち一人の蘇我氏の姫がこのあたりに打ち上げられたので、「ソガヒメ」となった云々というのである。この地は生実川の河口にあたり、古来房総半島側の良港であることから、蘇我氏とのかかわりがあったのであろう。
境内には浅間さんなどもあって、産土さんになってました。「南千葉総鎮守」と謳われていましたが、近所の初詣のひとがちらりほらり来ていた。
〇曽我野藩陣屋跡 ・・・ 明治三年に戊辰戦役時の勲功により宇都宮藩から別れて置藩され(戸田氏)、翌年には廃藩になった曽我野藩の陣屋があったのである。
八幡公園というのだそうで、赤い建物が八幡神社なんですが、陣屋跡としては表示の一つもないのである。
〇浜野港船着き場跡 ・・・ 中世期からの良港で、飯尾宗祇も来てるそうですが、明治期に汽船の船着き場あった。
生実川や浜野川の縦水脈というのが東京湾に向かって出ているので、舟が入りやすかったそうなんです。今は埋め立て地の中の公園となっておる。
〇千葉県立美術館 ・・・ 「追悼 深沢幸雄の歩み」展を見に来ました。特に作品に興味があったわけではないんですが、三十代のころ(1960年代)に墨西哥に招聘されて銅版画を教えた、ということが日本の墨西哥観光案内の本には必ず書いてあったので、興味を持ったのである。
↓冬の曇天のもと、蕭条たる千葉港の様子だ。漂泊の旅人・肝冷斎はこの海のかなたに消えたのである。
水底に、うつそみの面わ 沈透(しづ)き見ゆ。来む世も、我の 寂しくあらむ (釈迢空 大正14)
1月13日・・・・・・・・・・・・・・・・
〇八丈島探索 ・・・ この十年ぐらいでリピーター化しておりますが、いつものように八丈島歴史民俗資料館を見学の後、式内・優婆夷宝明神社と裏見の滝・為朝神社石祠へ。そのあと、神社(社名・神名不明)、不動堂、八丈島ビジターセンターを訪ねた。写真類は爾後。
・裏見の滝
裏から見るともっといい。
・不動堂
お不動さんですが、鳥居があって赤い屋根。南島っぽくてすばらしい。
・ビジターセンター
ビジターセンター内部の「八丈の渚」。海亀などが置かれている。非常によい感じの「きょん」。「原始的なシカ」とあるとおり、原始的な感じである。
1月21日・・・・・・・・・・・・・・
本庄市調査を行う。
〇本庄市歴史民俗資料館(ハニワ、諸井家その他)・・・旧本庄警察署の建物を使用。
警察署は、関東大震災の朝鮮人虐殺や戦後の本庄事件(「暴力の街」として映画化され、本庄の名を高からしめた)に対処してきたのである。
「人民控え所」という名の待ち合わせ室。
小島古墳群から出てきた「笑うハニワ」たち。耳がでかく、鼻が高く、笑っている異形の者たちである。これらをはじめ、この資料館にはハニワや土器が所せましと並べられている。
〇旧本庄商業銀行煉瓦倉庫
〇本庄仲郵便局 ・・・ 諸井家。
〇本庄金鑚神社 ・・・ 豪華な作り。欄間彫刻など。
どうですか、このピカピカ感。大門や巨大クスノキもすばらしかったが、拝殿の赤いピカピカがすばらしい。
〇小島古墳群(山の神古墳・蚕影山古墳)
手前が山の神古墳、向こう側が蚕影山古墳。
〇本庄城跡、愛宕神社古墳
〇五十子陣跡、若雷神社古墳
室町時代に関東一円を巻き込んだ「享徳の乱」で、約二十年間にわたって関東管領方が布陣した「五十子(いかっこ)の陣」はこのあたり(西五十子から東五十子方面を見る)と思われる。中央の森は江戸期に勧請された「若雷神社」(わかいかづちじんじゃ)を祀る円墳。
1月27・28日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
都城に所用があり、鹿児島・宮崎地方に進出した。
〇隼人塚、同史料館
国指定史跡。むかしは隼人の塚だと言われていたそうで、時に鳴動したりしていたらしいが、今では平安時代のものだということが明らかになっているらしい。
〇鹿児島神宮、石体神社、卑弥呼神社 ・・・ 石体神社は今では安産の神社になっていますが、鹿児島神宮の元宮で、太古・八幡神が国分の地に上陸したころ、ここの岩が割れて「八幡」の文字を現出したとのことである。
鹿児島神宮拝殿。かっこいい造りになっています。
〇隼人歴史民俗資料館
〇蛭子神社、なげきの森、日当山温泉
〇熊襲穴 ・・・ オウスノミコトがクマソタケルを成敗して、「これからはヤマトタケルと名乗られるがよい」と言われたところ。と所有者で旅館主という石原さんが書いている。・・・がどうか。
だいぶ昇ったところなので、疲れました。入口右側に中の電灯のスイッチがあるんです。はじめそれを知らなくて暗くて入れなかったが、ほかのひとがスイッチつけて入ったのみてやっと入れた。
内部にはこういう壁画?も描かれております。
〇溝ノ口の洞窟
溝ノ口集落の奥にある洞窟。深さ200m以上、ということだが、30メートルぐらいで立入禁止になる。入口手前に懐中電灯が置かれています。
最近は大隅屈指のパワースポットとして有名だそうです。ここから入ったイヌが高千穂に出てきたよし。この洞窟の前で祭りもするらしい。
〇財部郷土館 ・・・ 曽於市のうち、以前の財部町の郷土館。
田の神さま。もと田の畔などにおられたが、圃場整備で居場所なくなって資料館におられる。
〇山中貞則顕彰館、山中家墓所、熊野神社、仁王像
自宅を改装した山中貞則顕彰館。沖縄にいるとこのひとの記念碑や胸像が実にあちこちにあった。
写真撮っていいのかどうかわかりませんが撮ってみました。かなり見どころ有り。昭和20年代からの選挙ポスターの変遷など、実におもしろかった。
〇末吉城
〇末吉歴史民俗資料館
〇上野原縄文遺跡
〇都城市歴史民俗資料館
中世の都之城跡に建っていますが、建物は復元でもなんでもありません。「城郭風」に立てた、んだそうです。
海軍大臣・財部彪。ほかに瀬戸山三男さん(元郵政大臣)の銅像もあり。上原勇作陸軍大臣も都城出身。
〇島津館跡、
2月10・11日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
岡山方面大調査 → 別添
2月12日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日も休みだったので、朝霞調査。ただし朝霞についたのは午後四時ごろ、といういい加減さである。
〇旧高橋家住宅 ・・・ 享保年間のもの。移築していない、というのが驚異的である。十数年前までばばあが住んでいたが、ばばあの死後、市が買い取って、ばばあが建て増ししていたトイレやら渡り廊下やらトタン屋根やらを取り外して旧に復したものという(文中敬称略)。
3月7日までおひなさまが飾られているそうである。旧家に飾られた大量のおひなさまが深夜も無言で動かないでいるものであろうか・・・。
〇湧水代官水 ・・・ 武蔵野特有のハケ下の湧き水であるが、江戸時代からこの名前なんだそうです。
〇岡氷川神社 ・・・ 鎌倉時代からあるらしい。
〇一夜塚古墳跡 ・・・ 戦中に父兄総出で小学校の敷地を拡げた際にぶち壊したら木槨内から武具とか土器とか出てきたそうである。小学校内にある碑には、みなさんも豪族の子孫であるので、学問して立派になるよう、と書かれてあった。
〇柊塚古墳 ・・・ 黒目川が荒川に合流する近くの河岸段丘上にある前方後円墳。埼玉南部の重要古墳であるとのこと。
手前に模型があります。
〇東円寺 ・・・ 立派なお寺である。裏手に不動堂と不動滝があって、そこまで行く道がなかなか結構なものであった。
2月18日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
取手方面に所用があったので、昼間はレンタカー借りて調査。二神社、二古墳、一記念館を踏破せり。
〇蚊罔神社(こうもう神社) ・・・ 「罔」の字、虫へんが附きます。延喜式式内。本来は「みづちの宮」。「流れの海」(古代霞ヶ浦)に突出した岬部分であった台地突端に立つ。もとは「門の宮」の地にあったということだが、洪水などあり中近世に「奥の宮」が作られたものという。「門の宮」の場所は有名な「立木貝塚」遺跡でもある。
こうもう神社奥の宮拝殿。静謐な森の中である。
こうもう神社門の宮。この岡上、「立木貝塚」で、明治以前から土偶など「奇物」の出るところとして知られていたらしい。縄文末の遺品多数という。
〇楯縫神社(たてぬい神社) ・・・ 布都の命が楯や鎧を棄てて昇天した、という常陸国風土記にある伝説に係る神社で、命が楯を脱いだ、ので「たてぬぎ」→「たてぬい」となったという。
森深く、神威ビシビシたるものあった。
〇間宮林蔵生家・記念館
択捉、樺太調査で名高いが、後半生は西日本担当隠密、水戸斉昭の情報源、となぞの多いひとである。
〇仏島山古墳 ・・・ 平将門さまの塚とも伝えられる。もとは周濠をめぐらしていた円墳だったので「島」というらしいが、今はほとんど平坦になってしまった。
〇大日山古墳 ・・・ 台地上の円墳。将門さまの室・桔梗のお方さまの塚とも伝えられる。現在は岡神社が立っているが、廃仏毀釈前は大日堂であったよし。きれいな円墳構造が残り、盗掘のあともないそうである。
2月24日・25日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二日ほど沖縄へ。
〇県立美術館
〇沖縄市・諸見里拝所
〇那覇市・弁ケ御嶽
首里の住宅地にこんな場所があるのか、というような神威ある場所だが、今回はじめてトーチカ跡も発見した。
〇宜野湾市・大山貝塚・美底山御嶽
美底山御嶽はちょっとすごい神威びしびしたるものがあった。
大山貝塚は本土の縄文末期ごろに並行する遺跡で、沖縄に縄文遺跡があることを証明した重要な遺跡なんだよ。
左側は普天間基地のフェンス際。この先を右に曲がると御嶽で、拝所やガマもあるのだが、あまりに神威高いので写真はやめときます。
3月11日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ジャイアンツ球場から式内・穴沢天神社を経て、稲城の多摩川渡船場跡へ。
〇川崎街道・地蔵
〇十三体馬頭観音 ・・・ 江戸末期から大正ごろまで、村落における重要な労働力・交通手段であったウマを祀る馬頭観音碑(ほとんどは文字のみ)が作られ、交通の要衝であった矢ノ口の渡船場に置かれておったということである。
馬頭観音像まで彫ってあるのは13分の1だけである。
3月17日・18日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
静岡周辺調査を敢行。
〇静岡学問所跡 ・・・ 明治初年駿河に移封された徳川家の藩校。英学も学んだ。
〇草薙神社 ・・・ 日本武尊を祀る式内社。龍勢花火の資料室もある。
鳥居の左の方に日本武尊石像があるんですが、鳥居にちょうど隠れてしまっていますね。
〇瓢箪塚古墳 ・・・ 全長40メートルの前方後円墳。
〇清水港テルファークレーン ・・・ テルファーというのは木材運搬のことだそうです。船に積んで来た木材をフックに引っ掛けて貨車に移す装置で、名古屋と神戸と清水にしか無かったそうなんですが、名古屋も神戸も取り壊されて、ここだけ残って登録有形文化財になっておる。
機能を求めて造形されたモノは、なんだか荘厳な感じさえします。
〇藤枝宿
・飽波神社 ・・・ 延喜式内。少名彦名神を祀るという。
おみくじ引いたところ「末吉」出た。すばらしい。
・藤枝市博物館・文学館 ・・・ 人形・豆本の特別展示中。軽便鉄道の関係がよかったです。
軽便は戦前すでにディーゼルになっていたそうなんですが、太平洋戦争期の石油不足で再度蒸気機関車が作られた。この車は昭和23年に配備されたもので、昭和40年ごろまで走っておられたとのこと。
・蓮華寺公園
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