沖縄観光記6 (起:平成25年1月1日(火)) 目次へ 平成24年12月へ
おえらがたよ、今にあっといわせてやるぜ。わはははは。
初日の出・・・の少し前。下の方の稜線は伊勢神宮神域の神路山や鼓岳。
平成25年1月
1日
正月は伊勢神宮。
2日
かさもりいなり法住院
4日
しごとも行かずに「日本最古の神社」と謳われる花の窟(はなのいわや)神社を拝す。約二十五年ぶりに原始神社の聖なる空間を「味わい」に行った。二十五年前は折口信夫を読み始めたころですよ。
あいかわらず神殿も拝殿も無く、聖域がむき出しにある空間の在り方が沖縄の御嶽(うたき)と同じ「味」あるいは「におい」です。沖縄になかなか行けないひと、御嶽のタタリのウワサがコワいひと、などはここに行くといいかも。つわぶきとくば類似植物に覆われ、植物相もよく似ています。海人族の原始聖地の形をかなり忠実に遺しているのであろう。
二十五年前に比し周辺の施設がずいぶん整備され、また(当然であろうが)かつて境内で待ち構えていて天皇陛下(昭和天皇であった)と天皇家の悪口を誰彼かまわずに吹いていた当時七十代と見られた超古代史じじい(その論旨は、「現在の」天皇家は神武帝以来軍人の家柄であり、特にその血の濃かったのが昭和天皇であった、「現在の」天皇家以前には文人の天皇家もあり、その時代はよかった、おまえたちはそのことを知らない、みたいなことであった。竹内家古文書などを踏まえていると思われ、わしには言っていること理解できるし反論もできるが他の人には理解できなかったであろう)ももう見ることは無かった。
しかし、ゴト引き神事(「引き綱祭り」)は今も伝えられ、神岩は微動だにせずそこにあったのである。
木の国や花の窟に引く縄の長く絶えせぬ里の神わざ 本居宣長
←遠くからも見えるこの変な岩の・・・
←下にこの写真の右半分でも収まらぬ白色の崖壁があるのだ。海人族の末裔ならば、神威を感じぬ、というわけにはいくまい。
5日
英虞湾周遊
←英虞湾。
鳥羽城
伊良湖清白旧家
6日
倭姫神社
神宮徴古館・美術館・農業館
12日
本日はエライ人の後ろの方から久高島へ。久高殿、外間殿。
13日
北谷・ちゅらーゆへ。雨風激しくなったが、北谷・クマヤガマ洞窟遺跡(拝所)を経て名護まで来た。
14日
名護城(なんぐすく)に行く。6年ぐらい前に一度登っているが、今回はノロ殿内、掟神、神アシャギ、名幸親方の墓を確認した。もと名護(那古、名幸とも)の里は現在の名護城一体の山中であったよし。14世紀に人民どもは名護城内から麓に降りて村を作ったのだという。名幸親方はもと北山王の世子であったが、今帰仁城がはにじ(羽地按司に比定さる)に落とされたとき、逃げ来たって名護親方に匿われ、名幸里の子と名乗ったということである。
寒緋桜も少し咲きはじめておりました。
その後、羽地奥武島を経て屋我地島へ。屋我地島はハンセン病療養所の島というぐらいしか知らんかったが、広くて美しい島であった。
続いて古宇利島へ。「琉球国由来記」の「郡村」である。最初の人類の男女がこの島に住んだ、ということから「恋の島」と宣伝中。七つの御嶽があるとのことだが一しか明らかならず。
○シラサ岬、中嶽(ナカモリノ御イベ)
運天側に向けて神女たちが海中に向かって祈る海神祭で有名。神女らが下部に洞穴のある岩が「シラサ岬」。その陸地から見て左側がウフドマイ(「大泊」)で、ここは生者の帰り着くところ。右側がチグヌ浜で、こちらは死者の帰り着くとこであるという。
またこのシラサはウナミゴ・ウナキの女・男二柱の流れ寄りたるところとも言う。二人ははじめ毎日、月神から餅を下されるを疑問に思わなかったが、ある日ふと明日からこれが下されなくなったらどうしよう、と疑い、その一部を遺して保管した。するとその日から餅は下されなくなり、彼らは月神に祈ったが甲斐なく、以降ニンゲンは労働の苦しみの中に生きて行くことになった、という。
また、彼らははじめ全裸であったが、ザン(じゅごん)の夫婦の営みを見て性の交わりを覚えるとともに、草を以て秘所を隠すようになったともいう。
なお、海神祭の際の出発点となるのが中森御嶽。頂の拝所には頭骨が埋められ(女性のものという)、麓もガマとなっており、なかなか神威びしびしたるものあり。
←シラサ岬。死の浜・チグヌに降りて撮っております。
※古宇利の海神祭について
「琉球国由来記」に曰く、
毎年七月、大折目とて、海神祭、且作毛の為に、巫・大根神・居神(←すべて神職である)、都合二十人余、城内、ヨウオスイというところに、たもとを据え、花・五水祭祀して、アワシ川の水をとり、巫・大根神、浴びて、七度あざなを廻りいたし、庭に於いて酒祭る也。それより縄を引張り、舡(ふね)漕ぐ真似を仕り、城門外より、惣様馬に乗り、弓箭を持ち、ナカレ庭というところに参り、鹽撫で、親川にいたりて水撫で、また城内、ヨウオスイにて、祭祀なり。
とあり。今、中森御嶽を中心に行われる海神祭(うんじゃみ)は少し違うようである。
○トケイ浜(渡海浜)
激しい波頭が砕け、男性的な海である。男性神と思われる岩あり。神威強し。
←渡海浜に入るあたり。
←こういう形の岩(ポットホール)がたくさんあります。二つ並んでいるのはドクロちゃんみたいに見える。
←渡海浜の奥(東端)の方。陽神らしき岩(右端)と神あしゃぎ(海から来た神様のとっかかり)らしき岩(左端)。このあたり神威強し。波の向こうには国頭の山が見える。
○古宇利遠見番所
伊是名、大宜見の烽火を受け、具志堅・伊江に伝えたという。
その後、運天にて「為朝公上陸の碑」と「クモキナ御嶽」を確認しようと思ったが、運天港から運天に向かう途中で暗くなってきたのでもう止めました。また今度。
ところで、笹森儀助の「南嶋探検」によりますれば、儀助の国頭地方巡回の際、各村のノロクモイが争ってその宝玉を見せに来たそうである。儀助思えらく、
険路跋渉の際、間々巫祝(ふしゅく=ノロクモイ)の美容を見るは、これを一愉快とす。
(国頭地方の険しい道を歩き回ったのだが、その間に何度か美しいノロクモイと出会い、じろじろ見ることができたのは、たいへん愉快なことであった。)
と。(平凡社東洋文庫版・上巻p97)
怪しからんことではないか。わしは国頭ではおばあしか見たことないし、御嶽ではわしが拝み(うがみ)の邪魔をするのではないかとすごい目でにらんでくる肥った女ぐらいしか見たこと無い。まことに怪しからん。
19日
南部等うろうろしております。
○百名村 ・・・開闢神話ののこる古い村です。「殿」(どぅん)、御嶽、焚字窯を発見。焚字窯は字の書いてある紙をポイ捨てしないようにしろ、という敬字思想に基づき、字の書いてある紙を専門に焼くための窯である。
このあたりでは、御嶽の裏山(おいべ)にいます祖先神をお祭のときに「殿」にお連れして、その前にお祭をする、という構造らしい。
←真ん中ちょっと右のケーキに載せるウエハースの家みたいな形したのが字を焚く窯。奥は大城ガー。左手隠れたところに御嶽の石。
○ギーザバンタ(慶座崖) ・・・摩文仁の近くにありまして民間人がだいぶん飛び降りたところらしい。好風景。
○具志頭城(ぐしちゃん・ぐすく)・・・14〜15世紀に勢威を振るった具志頭按司の主城。海岸線の崖上にあり、当時は内海を扼してシナや日本との貿易を行っていたという。城としての遺構はほぼ無いようだが、最高所に展望台、高知・山梨の慰霊塔のほか城御嶽あり。なお、かつての内海は生活排水レベルの小さな川になってしまっておりました。
←具志頭城跡地。向こうは海。
←この川が内海の名残とか。港がこうなっちゃったら貿易国家は滅びますね。
○ヤブサツ御嶽・・・前回はたどりつけないと思い込んだ開闢聖地の一・藪薩御嶽。ちゃんと標識があったのでそれに従ってお参りしに行きました。
拝所の向こうはコワいので足を踏み入れないようにしよう、と思ったのに、別の道を行くと向こう側(至聖所)に出られる。展望台みたいになっておりました。こんなところまではいっちゃって大丈夫なんかね? アイハンタ(井バンタ)御嶽は今回も発見できず。
←御嶽の「空間」そのものを撮っちゃった写真を出すとやっぱりコワいので、「ヤブサツ御嶽こちら」の標識の写真で御勘弁を。
○牧港・・・戦前までは山原船の重要基地の一で、国頭の物資を浦添に運んでいた。かつて中山国が浦添にあったころは首都の外港だったのである。
←こんな感じの河口部。
○琉球温泉(瀬長島ホテル)・・・温泉としてはともかく、この島は豊見城の親島(土地開きの神(祖先)が最初に開いた集落)として聖地だったが、米国占領中にいろいろ壊されてしまったよし。今でも「拝所の島」らしいがホテルに泊まっても大丈夫?
20日
○瀬長嶋・・・瀬長祖の拝所、竜神祠、旧子宝岩跡地を発見。瀬長祖の拝所が指し示す神の故郷は?
←瀬長祖拝所前のイノー。左手の方は慶良間群島。前方は?あの無人島は何というんだっけ・・・
←子宝岩跡の碑。子宝岩には二竅あり、上の穴に石を投げいれると男の子が、下の穴に投げ入れるとおんなの子が授かったという。米軍が破壊した。
○糸満市内
・糸満海人工房(民俗資料館)・・・かなりよかった。ミーカンガーなど漁具は三重・鳥羽の「海の博物館」で見たものであった。糸満には西村・中村・新島の三集落あるとのこと(それぞれがハーリーを出す)。西村→中村→新島の順でできたので、それぞれが親・子・孫である、という。いずれも白銀堂を尊崇する。
←NPO法人ハマスキーの管理する海人工房。
←海人工房内部(隠れ撮りなり)。海人に見つかったらボコられるかも・・・。
・山巓毛(さんてんもう)・・・展望台ありて糸満市内見下ろせる。昭和戦前にはここに国旗の掲揚塔ありたるよし。「山巓の毛」(山のいただきの野原)のよしかと思いしところ、「サンアテノモウ」が故名とのこと。「さん」「(腰)あて」ともに海人族の「ウタキ」の呼び名なり。海人は沿岸、沖合で漁する際、漁場や暗礁などを記憶するのに、陸上の特異な地形がどこに見えるか、を「あて」にする。この陸上の特異な地形(一般には山岳)が「腰あて」であり「さん」であり、海人族の「ウタキ」である。
←水道展望台より山巓毛を見下ろす。
・幸地腹門中墓・赤比儀腹門中墓・・・でかい。こんなでかい墓に眠りたいものじゃなあ。なお、「門中墓」はfamily tombと訳すのですね。
←これで半分ぐらい。
・南山王・他魯毎墓・・・山巓毛の麓にほかのどでかい墓といっしょにあり。他魯毎(たろめ)は「太郎前」に比定さる。南山王として14〜15世紀に勢威を揮いたりという。
・白銀堂・・・金武観音寺、普天間宮などと同じ洞窟聖所である。鳥居をくぐると観音堂があり、その下に鍾乳洞あり。観音堂脇から岩場に入れるが、こちらにも拝所多く、斎場御嶽三庫裡型の巨石群あり。紀州のゴト引き岩(花の窟)にも似る。かなり神威びしびしたるあり。
←白銀堂。堂の左手奥の岩場がこれ→
・このほかいくつか泉(ガー)あり。
○南山城・・・高嶺小学校脇にあり。案外広く、よく手入れされている。拝所数か所、神社型拝殿もあり。東に下ったところに水量豊かなカデシガーがあって、南山王はこのガー(泉)と黄金の屏風を中山王と交換したため滅ぼされてしまった、と言い伝わる。「そんな愚かな王がいるものか」と数年前までは嗤っていられたが、鳩山○紀夫を知ってしまった今となっては、如何なる愚者も王となりうることが証されてしまっているので、嗤うことができない。なお、南山城の北方に和解森(ワゲテ)あり。南山王の王女と為朝の睦みあうたる場所というが真偽如何。
←かなり広いです。小学校で手入れしている模様。初代村長は歴史を大切にするためわざわざ城跡の横に小学校を移したよし。
○具志川城・・・太平洋と東シナ海の境目あたりの海に突き出した断崖型岬上に築かれた海城である。断崖の根部分に入口、二の郭、断崖の先に一の郭あり。二の郭に「火吹き穴」(波濤によって海水を吹きあげる竪穴)あり。一の郭の断崖側は断崖下の船着き場と連絡できたものと思われる。
整備中ということだが、断崖の上まで注意書きも無しに出てしまえるのはコワいですね。あちこちに「久米門中」の拝所・オイベあり。整備工事のせいか二つ折れになってしまっているものも多く、そのうち怒られる(神様に)のでは。
久米島の具志川按司が伊敷索按司に攻められて逃亡し、この地に築城したと伝わる。海に突き出した断崖上に二つの郭で造るという縄張り・構想がそっくり、といわれてますね。
←具志川城。入口側から二の郭、その先の一の郭を望む。柵内は「火吹き穴」。
←具志川城より喜屋武岬方面を望む。喜屋武岬あたりが東シナ海と太平洋の境目。
○喜屋武岬・・・どこかのコドモらがエイサーやってました。ビデオで全国大会に参加するらしい。
平和の碑あり。軍民一体となって戦ったことを記念するもの。昭和47年ぐらいまでは、沖縄でも軍民協力を指導した人たちがまだ力を持っていたんでしょうね。どこかで論理が変わった。世界的にはスモールイッシューが政治を動かしはじめた1980〜90年代、沖縄では太田県政あたりが分水嶺か。灯台もあり。
○荒崎・・・なんとかがんばって「カサカンジャー」まで行こうとしたが、あと500mほどに迫りながら、断念。琉球大学地質学研究室のみなさんや、↓に出てくる琉球王府のやつはなんとかたどりついているみたいなのだが・・・。個人であまりにも神聖な場所を調べようとする者への「戒め」なのか転んでケガした。「ひめゆり殉難場所」発見。
※「カサカンジャー」につきまして
糸満市・喜屋武岬の東、荒崎の岩場の先にある奇岩。「笠かぶりもの」の意で「カサカンジャー」と呼ばれているらしい。外洋や喜屋武岬からはよく見える。人工のものにも見えるため、巨石遺跡(ドルメン)説もあるが、現在のところ↓の琉球王府調べの(ア)であろうというのが定説とされている。
←カサカンジャー先生の勇姿。
「球陽」巻二十(1832年)に曰く、
・・・この年の九月初十日、大風・大水あり。石の海より揚がるもの、三。
この日、暴風大いに起こり、国中で人名を損失すること合わせて14人に及んだ。人家3293戸と倉庫23戸が吹き倒され、海船大小合わせて990隻、役所・寺院・田圃・河川施設・作物なども風により損失した。
以下、地域別には、
玉城郡奥武村、海波濤揚洗蕩人家共七戸。
玉城郡奥武村、海波、濤揚して人家を洗蕩す、共に七戸。
→玉城郡奥武村(おう・むら)では海の波が地上に上がり、人家を洗い流した。合せて七戸。
久志郡久志・川田・宮城等三村亦海水湧騰淹斃人命。共十名、洗流人家共四十七戸。
久志郡久志、川田、宮城等三村、また海水湧騰し人命を淹斃す。共に十名。人家洗流す、共に四十七戸。
→具志川郡の具志、川田、宮城の三つの村でも海水が地上に湧き上がり、溺れ死んだ者合わせて十人。洗い流された人家はすべてで四十七戸。
喜屋武郡喜屋武村南浜有大石揚於海三。
喜屋武郡喜屋武村南浜に大石の海より揚げらるるもの三あり。
→喜屋武郡喜屋武村の南浜に、巨石三個が海から打ち上げられた。
この三巨石はそれぞれ次のようであった。
ア)高さ6尺5寸、長さ一丈六尺、幅六尺五寸、岸から五十間打ち上げられていた。
イ) 高さ6尺5寸、長さ・幅それぞれ一丈一尺、岸から百間打ち上げられていた。
ウ) 高さ3尺、長さ一丈九尺、幅一丈、新崎(荒崎のことならん)の鹽垣を越えて三十間打ち上げられていた。
以上。
23日
えらい人のお供で小録の海軍壕跡へ。
←お出迎えに行ったホテルにあったオオゴマダラチョウの「黄金のさなぎ」。
26日
名護に来ました。名護はさくら祭りの真っ最中。
知人が「第二十九回 二見情話大会」に出場するというので観覧に来た。この大会は、男女一対となって名曲「二見情話」だけを歌い、その優劣を定めようというもの。今回は中学生からくそじじいまで老若男女23組が出場とのことである。
←表彰式。18時ごろ。昼間は暑く、この時間にようやく肌寒くなってきた・・・。
「二見情話」は、歌詞を引くと著作権がどうたらでやられるので差し控えるが、沖縄戦末期に摩文仁で民間投降者として捕虜になり、二見村(現:名護市二見)の収容所に入れられた照屋朝敏氏が、収容所から解放され、首里に帰れることになったとき、風光・人柄のよい二見村を去りがたい思い、戦場のことなどを詠いこんだ希代の名曲である。
現在、今帰仁村内に潜伏中。
27日
今帰仁村内調査を敢行す。
○池城墓(いちぐしくはか)
崎山の横穴墓なり。崎山大やくもい(親雲上)とその妻のあむしたれ(阿母知られ)、そのムスメの玉城ノロを葬るという。途中、軽トラックのおじいにすごい目で睨まれる。見つかったのはまずかったのか。
○運天
・渡喜仁→運天の裏宿道(すくみち)・・・疲れた。
・源為朝公上陸之址碑・・・東郷平八郎伯爵筆。
←運天港を見下ろす丘上に立つ。
・百按司墓(ももぢゃなはか)・・・かなりコワい。ここに三つの木棺に溢れるほどのガイコツが葬られていたという。
←見るひとが見たら何体か見えるのでしょうなあ・・・というぐらいコワい感じの場所。
・運天森展望台
←運天港、羽地内海方面を見る。また、右下にあるのは運天集落。
・ティーラガマ・・・運天の御嶽とのこと。為朝手形の岩もあり。以前はこのあたりまで来れるのは神人だけで、一般の運天村民は500mほど離れた「サンケー」と呼ばれる小屋のところで神人の戻るのを待ったという。
←ここはウタキ空間の入口あたり。これより右側に至聖所への降り口がある。地の底への・・・。コワくてそちら側はよう写さんかった。今帰仁村の公式HPには出ておりますので見たい人はそちらを。
・運天集落・・・神アシャギあり。国頭は中部・島尻で「殿」が果たしている役割(御嶽からお見えになった「神」を饗応する「場」)を果たすのが神アシャギであり、集落ごとにある。
・大北墓(うふにしばか)・・・北山監守であった尚氏一・二世、四世〜十世の墓である。あれ? 三世は?
←ここもコワいところですよ。この敷地内に「大和墓」といわれる墓石がニケあるらしいが発見できず。
・運天港の古墓・・・やっぱりありましたよ、あれが・・・。
・ウプガー
○今帰仁城
・今帰仁村歴史文化センター・・・レベル高し。ただし写真撮影禁止。
・阿応理屋恵火の神殿内・・・裏手に国頭方面遥拝場所もあり。かつては名高い阿応理屋恵神女の館であったともいう。なお、最後の阿応理屋恵さまの写真を歴史文化センターで見た。なるほど山原あたりでは息を飲むほど美しいお方であられたろう。
・今帰仁ノロ火の神殿内祠跡
・今帰仁城・・・大隅、平郎門、大庭、主郭、志慶真村跡など。志慶真乙樽の碑。城壁は美しいとのことだが、勝連、中城を見てきた目には・・・(石が違うらしい)。なお、さくら祭りのまっ最中。ソイツギ御嶽、カラウカーはわかりましたが、テンチヂアマチヂの御嶽を確認できなかった。クバウ御嶽の尾根を確認。
←平郎門。さくら祭り中。
←大隅から大庭・主郭側の石塁を見上げる。美しい。
○諸志御嶽(諸喜田(すくじゃ)御嶽)・・・植物群落(国指定天然記念物)、ウプガー、そして・・・あわわわ。夜とか夜明け時などにこんな森の中でさまよったら、次元のはざまに迷い込んで向こう側に意識だけ置いて来てしまいそう。戒むべし、戒むべし。
←ゲゲゲ状態。この奥に・・・もっとコワいところも写真撮ってしまったが、アップするのコワい。さらにもっともっとコワいところもあり、ここは写真撮れず。手が震えて。
○本部さくら祭り・・・ブレイクダンスかっこいい。
それにしてもなかなかクモケナ御嶽にたどりつけません。クモケナは玉城の集落にあるらしいことまでわかったが。