巨大カレーライスや巨大ラーメンを食うぶたキング、ぶたとのだ。史上の英雄たちと比べても引けを取らない量である。
疲れました。明日も休みたいなあ。わしら常人はたいていいつも疲れていますが、都知事選に出るような英雄のみなさんは疲れを知らないかも知れません。
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そこで、久しぶりで英雄の詩を読んでみますよ。
東臨碣石、以観滄海。 東のかた碣石(けっせき)に臨み、以て滄海(そうかい)を観たり。
水何澹澹、山島竦峙。 水なんぞ澹澹(たんたん)とし、山島は竦峙(しょうじ)す。
東のかた(夏王・禹の支配の境界であった)碣石の山に登り、渤海湾のあおうみを見た。
水はなんともゆったりとうねり、かなたには島々が立ちすくんだように聳えている。
樹木叢生、百草豊茂、 樹木は叢生し、百草は豊茂するも、
秋風蕭瑟、洪波湧起。 秋風は蕭瑟(しょうしつ)として、洪波湧起せり。
(碣石山には)木々がむらがり生え、多くの草が豊かに繁っているのだが、
秋の風はさびしげに吹いて、大いなる波が湧き上がり、打ち寄せる。
日月之行、若出其中、 日月の行くや、その中に出づるがごとく、
星漢燦爛、若出其裏。 星漢の燦爛たる、その裏より出づるがごとし。
太陽や月が天を行くのも、この中から出てくるのだろう。
天の川に星がきらめき光るのも、この中から出てくるのだろう。
この句↑はすごいですね。
幸甚至哉、歌以詠志。 幸い甚だしきこと至れるかな、歌いて以て志を詠ぜん。
すごくキモチいい、最高のキモチよさだ、そこで、このうたを作っておれのキモチをことばにしてみた。
すばらしい。
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これはなんと、三国志の英雄、魏武侯・曹操さまの「夏門歩出行」(夏門、歩き出づるの行(うた))第二首である。曹操さまが北方の烏桓(うがん)を討つため、後漢・建安十二年(207)東海(渤海)に面した碣石山に登ったとき、伝説の夏王・禹の支配した「中夏」の外に出た、という感慨を歌ったのである。気宇の壮大なる、まことに古今に絶する。
なお、碣石山はその後の六朝期に海中に没した。
それから1700年とちょっとぐらいしてから、別の英雄がこのあたり、渤海湾に面した秦皇島(秦の始皇帝が統一した天下の果てまで巡幸して、ここまで来たという)にやってきて、詩を作りました。こちらは唐代から生まれた「詞」の形式を使っています。
大雨落幽燕、 大雨は幽燕に落ち、
白浪滔天。 白浪は天を滔(ゆるが)しぬ。
秦皇島外打魚船、秦皇島外の打魚の船、
一片汪洋都不見、一片の汪洋、すべて見えざるに、
知向誰辺。 誰が辺に向かうを知るか。
激しい雨がいにしえの幽洲・燕州のあたりに降り、
白い波が天に届くかのようだ。
秦の始皇帝がやってきたという秦皇島の沖合へ、魚釣り舟が出ていくが、
まわりは一面に波打つ海、それ以外なにも見えない。
いったいどこに向かっていくのか、あの船にはわかっているのだろうか。
おれは人民を率いていくのだ。行く先はわかっている(つもりだ)。
往事越千年、 往事千年を越えて、
魏武揮鞭、 魏武は鞭を揮い、
東臨碣石有遺篇。東のかた碣石を臨んで遺篇有り。
蕭瑟秋風今又是、「蕭瑟たる秋風」は今もまた是あるも、
換了人間。 人間(じんかん)を換え了(おわ)んぬ。
むかし、千年以上も前のこと、
魏の武侯・曹操は馬上でムチを揮いながら、
東のかた碣石山に登って、詩を遺していった。
その中でいった「さびしげに吹く秋の風」と。その秋の風は今もまた吹いているけれど、
人間世界はもう変化したのだ。
おれたちは、世界を作り替えた。新しい階級が支配する時代が来たのだ。(おれの指導で!)
1954年、このあたりに労働者のための避暑地ができたのを祝ったうたであるそうだが、その力量、われら常人に量り知り難いものがある。
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近人・毛沢東「浪淘沙」(ろうとうさ。「浪に淘(よな)がるる沙」の節で歌え)詞「北戴河」(ほくたいが)。まことに英雄のうたいぶりである。英雄とはおのれのために人を死なせても心に揺らぎの無いひとのことをいう、とすれば、です。このあと大躍進とか文化大革命とか無茶苦茶します。