今の季節、川辺の村はこんなやつらでキュウキュウとうるさいことであろう。
今日もまだまだガマンじゃ・・・。
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夏になってまいりました。
清江一曲抱村流、 清江一曲して村を抱いて流れ、
長夏江村事事幽。 長夏の江村、事事に幽なり。
澄みきった川が一回ぐるっと、ちょうど村を抱くように曲がって、そして流れていく。
長い夏の日、川辺の村は、あらゆることがしずかである。
誰もいないかのように静まり返って、ニワトリのエサを求める声だけが聞こえる。
自去自来梁上燕、 自ずから去り自ずから来たる、梁上の燕、
相親相近水中鴎。 相親しみ相近づく、水中の鴎。
梁の上に巣をかけたツバメは、気の向くままに出て行っては、気の向くままに帰ってくるし、
川の水に浮かぶカモメは、(はじめは警戒しているが)互いに親しみを覚えるとだんだん近くまで寄ってくる。
大自然はあるがままにあるのだ。
人間はどうかというに、
老妻画紙為棋局、 老妻は紙に画きて棋の局を為し、
稚子敲針作釣鈎。 稚子は針を敲きて釣りの鈎を作る。
古女房は紙に線を引いて即席の碁盤を作っている。(晩飯のあとに誰かと一局打とうというのか。)
くそがきはお古の針を何かでかんかん叩いて、曲げて釣り針を作っている。(明日誰かと釣りに行くつもりか。)
どちらもわしを相手にしようとしているのであろう。おやじは失業状態でヒマだし、郷里から離れて流浪している小家族だから、あんまり外とつきあいがないのである。
このわしは、
多病所須唯薬物、 多病にして須(ま)つところはただ薬物のみ、
微躯此外更何求。 微躯にはこのほか、さらに何をか求めん。
病気がちで、欲しいのは効果のある薬類ばかり。
このちっぽけな(落ちぶれたおやじの)身体は、ほかに何を必要としようか。
村全体の遠景から、だんだん近くにズームされてきて、自分のことを愚痴って終わる。このひと、相当上手ですね。
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唐・杜甫「江村」。杜甫先生の詩だったんです。「事事に幽なる」生活はいいですね。ホントの川辺の村はいろいろ騒がしいし、うるさいやつもいるのだろうと思いますが。